作るのは個人、保管するのは

ネットを見ていると、ブログやSNSが華やかで、自撮り写真を投稿したり、おいしそうな食べ物を載せたりしている人がたくさん。

意見も表明しやすくなった。…であるがゆえに、炎上している人も中にはいて。なかなかネット時代のリテラシーを「学ぶ場」も「師匠」もいなかった時代の人にとっては生きづらい時代。

 

ネットを日々使いこなしている人からすると、ネット上で意見表明など当たり前で、自分の周りでは誰もが使っている印象を持ちがちだけれど、やっぱり相対的にはまだまだ使う人の方がマイナーな部類に入るのだろう。特に積極的アピールがもともと苦手な「日本人」という人種は、「見るけど書かない」「読むけどコメントしない」サイレントマジョリティが山ほどいる世界。

 

そのマイナーな人でも、こうした時代になったことにより、ネット以前の時代よりは、意見を表明したり、音楽や映像作品を発表しやすくなった時代。それこそパソコン一台あれば、タブレット一枚あれば、その他の高価な装置はほぼ必要なく、映像も、音楽も作成が可能になる。

そして多くの人々は、それらをブログやSNS上で表明していたりする。
そう、個人は、クリエイターは、誰もが安価に「作る人」になれる環境が整っている。

 

ただしそうして出来上がった作品、それもすぐれた作品を、今後ずっと維持し続けるのは「個人」ではかなり難しいこと。システムも日々進化する、解像度や分解能が変わる時代、ストレージが日々経年劣化する中で、どんな形でそれらを残していくのか。

もちろん、つまらない作品を含めてすべてを残す必要はない。けれど、そうして創作された「価値」とは、作られたその時である「今」はその価値がなくとも、次の時代に価値が認められるものもありえる。となると、それらをどのように目利きをし、保存し続けるのか?今は価値が認められていなくとも、将来価値につながりそうなものをいかに保管し続けるのか?

基本それらの維持保存は、個人ではなく、システムで、仕組みでしか守れない。でも膨大なお金を使うわけにもいかず、そもそも今後価値が出るのかすらわからないものを持ち続けるほどの余裕もない時代。

 

だからこそ、価値を生みそうな作品を探し出し、保護し続けることは大切な仕事。それがいかに素晴らしいものなのか、ポテンシャルを秘めているのか?石ころがごまんとある瓦の中から、ひとつの宝石の原石を探し、保護し続けていかなければ。

 

すでに、ネット時代になってから20年。ネットの片隅に埋もれて誰の目にも触れなくなったものを誰が発掘していくんだろう。

 

勝つことと

ゲームやスポーツ。それはある意味での「戦い」を模倣した形に落とし込んだもの。

だからこそ、勝ち負けがはっきりしたり、そのためのルールが細かく設定されていたり。こうした勝負の場が設定されることにより、わかりやすく、素早く結果が出せる環境が良いところでもあり、平和的に切磋琢磨できるところが利点の一つ。

 

だが「実際の闘い」や「争い」がそれによってすべてなくなった…と言うわけではない。国同士の覇権争いで、今や非常にキナ臭い状況になっている。

 

ビジネスの世界も、デジタル社会、ネット社会になって、ルールが激変し、それに対応できない企業がボロボロと消え去り、新しい会社がメキメキと頭角を現してきたこの20年。勝者と敗者はある意味鮮明に分かれてしまった。

 

しかし思うのだ。特にビジネスにおいては、「自分たちが勝つこと」と「それにより誰かが負ける事」はイコールではない、と。もちろん「相手を負かすことで勝つビジネス」も存在はするけれど、すべてがそれではない。
となれば、こうとも言える。「大きく勝ちはしないかもしれないが、負けない事」はありうる。

昨今の日本の企業において、労働人口減少もあいまって、ビジネス環境はかなり厳しい状況に置かれている印象を持っている。景気が回復していないことでジャブジャブとお金を刷っている現状があるけれど、すでに労働者を奪い合う状況は、正規社員、非正規社員ともに見え始めている。賃金も上げていかざるを得ないだろう。そんな中でどうやってビジネスを継続していくのか?

どこかに勝つ!…のも手だけれど、負けない事、会社経理上、赤字にならない事こそが一つの大きな視点だろう。負けなければ次につながる。次のチャンスにまでつなぎ続ければ、いつかは大きく打って出られる時が来る。そこまでは「負けない」事。

 

それこそが、世界に一つだけの…って意味じゃないのかな。

 

それはあなたの10分ぶんではなく

会議が多い。

月曜に会議があり、火曜にも似た会議があり、水曜日すら似たメンバーで会議がある。でもそれぞれ少しずつ違う内容、違うメンバーが含まれる。だから会議を整理してくれと頼まれる。

 

さらに、そんな会議に遅れてくる人。時間にルーズだとは言わないけれど、兼務が多すぎて遅れざるを得なくなっている人。忙しくなっている、出ないと仕事が回らない。けれどそれによって、モチベーションが下がる方向になっていないか?

 

たとえば、10分遅れてくる人がいたとしよう。これは、その遅れた人の10分ぶんが削られたのではなく、「待たされた人全員分の10分ぶんが無駄になった」ということ。

なので、

 ・待たせている人数 x 10分ぶんの価値

が無駄になっているという事。

例えば、正社員なら、換算した時給が1500円とするなら、1分あたり25円相当。10分で250円の価値に。かけることの人数分。

平社員のみならず、けっこうお偉いさんなどが入っている会議と、とても1分25円じゃすまない。1時間何万、何十万という人だっているのが社会の仕組み。

 

そう考えると、「私の遅れ」による価値は、あっという間に何万も何十万にも上る。人件費が最も大きい比率を占めていることがほとんどなので、あたりまえではあるのだが、そうした意識をどのくらい持てているのかどうなのか。

 

「この会議は、1時間で、いくらかかりました」

とパワーポイントの最後に入れてごらんよ。みんなが目を丸くするから(笑)。

PCを持たない人々

すでに大学全入時代。入るところを選り好みさえしなければ、誰でもが大学に入れる時代にすでになっていると聞く。結構な学費がかかるという事さえ除けば、日本の若者は総じて高学歴が「あたりまえ」になりつつあるのが今の時代だという事。逆に言えば、使えない学士を量産しているとも聞くのだが。

 

であるがゆえに、「高学歴」だからみんな以前より頭がいい、使える、仕事ができる…とはならないのが世の常。都会の列車に乗ればお分かりの通り、皆さんの多くはすでに「スマホ」を使いこなす世の中になったのだけれど、これは「何でもかんでもスマホで済ますことができる時代」という事でもあり、上記の高学歴の学生さんにおいてさえ例外ではないという事。

 

会社に入ればすでに、仕事の多くはパソコンという「道具」で進められている。一昔前の、「読み書きそろばん」に匹敵する能力が、パソコンでメールを描いたり、書類を作成したりする能力に進化したと言い換えても過言ではない。
だが、上記の通り、大学生においてさえ「スマホ」で済ますことができる世の中になりつつあり、大卒であったとしても「パソコン」を使いこなせない人が多く出始めている世の中に。

 

つい20年ほど前は、パソコンのキーボード入力に、日本人は抵抗があるだろうといった議論さえなされていたけれど、今時は、仕事でキーボードが「叩け」て当たり前。入力方法などわざわざ会社で教えるところは、よほどの特殊な職場でなければないのではないだろうか?

 

それでもスマホタブレットがこれほど出回っている世の中。極端な言い方をするなら、スマホタブレットは、主に「情報を見る人」が使う道具であり、他方パソコンは、そうした「情報を作り出す道具」だとも言えなくもない(もちろん、スマホでもタブレットでも、作れることはいろいろあるのは重々承知なのですがね…)。

要は、見るだけの人か、加工できる人か。

処理方法が分かっている人か、そうでない人か。

 

今や改めて言うまでもなくネットの時代。すべてではないけれど、たいていの情報はネット上に結構ある。どうやって探すのか?そこにひとつの関門があり、その情報をどのようにアクセスし、画面に呼び出し、理解するのか(場合によっては加工するのか)でさらなる関門がある。要するに、知識と技術さえあれば、考えて学ぶ力さえあれば、どこにいてもなんらか新しいことを生むことが可能な便利な時代。逆に言えば、そうしたリテラシーが無ければ、いつまでもそのレベルから抜け出せない時代。生きる力としてパソコンを使えることはやはり基礎実力として必要な時代のはず。

 

弱点を意識する

学業にせよ仕事にせよ、弱点をなくそうと勉強し、学ぶ人がいる。確かに、めちゃくちゃできる人は何でもできて、本当にすごい人がいるけれど、何でもかんでも「満点」はあり得ない。万に一つ、何百万に一つの確率でそういう人がいたとしても、それはたぶんありきたりながら「欠点が見つからない事」が欠点だなんていうことなんだと本当に思う。

 

弱点は誰にでもある。勉強できる人が運動できなかったり、どちらもできるけれど容姿が残念だったり。「弱点」というからいけないポイントのように感じるかもしれないけれど、要するに「得意でないところ」という意味だととらえればわかりやすいだろう。

 

その「得意でないところ」をどのように自分で意識するか、とらえるか。それこそが自分と他人との界面におけるアプローチポイントの一つになるだろう。

海外においては、「私はこれができます!(えっへん)」的なアプローチが趨勢を占めるようだけれど、かなり欧米化されてきている日本においてはまだそこまでいかない。むしろ「ここがまだできなくて」と謙遜から入る方が、組織やグループ内には溶け込みやすかったりする事さえあるくらい。

 

弱点だから近づかないというのももちろん一つのアプローチ。だけれど、弱点だからこそ、何を間違ったって当たり前でしょ…と果敢にアプローチする人もいる。こういう人、実はとっても伸びたりする。素直だとか、チャレンジャーとか言われる人でこういう人が多いのだけれど、弱いからこそ「間違って当たり前、失敗して当たり前、それより、経験せずにいることの方がもったいない。だからいっちょうやってみる!」というその精神。

 

もちろん、そうしてチャレンジしても、失敗もするし、大した結果を生みはしないのが最初のチャレンジ。でもそこで「おもしろさ」に目覚めることがあれば、もうこれは「弱点ではなくなった」に等しく、メキメキとその才能に開花する人がいるくらい。

そのためには、「いつそれにチャレンジする」のか、「どんなコーチ(人)が教えてくれる時にチャレンジする」のかを見極めることが重要。

いわゆる義務教育や高校くらいまでは、まず先生を選べない。が、一度社会に出たら、「先生を選ぶ」ことほど重要なことはない。うまく教えてくれる人、楽しく教えてくれる人、真の楽しみのポイントが分かっている人に教わるのとそうでないのとでは、全く広がる世界が違う。

 

弱点を意識し、そして先生を選ぶ。
やっぱり人生は、ずっと先達を探し続ける旅なのかな。