成長の結果としての

子供のころは、「おおきくなったら」という夢を抱いて、あんなこともしたい、こんなことができるようになりたいと、バラ色の未来を目指す。

 

ところが、早ければ大学時代あたりから、少なくとも就職して3年もすると、みんな擦れてくる。イメージしていた状況と違う。うまく行かない、やりたいことができない。そんな悶々としたジレンマに押しつぶされそうになりながらも、「社会人」として生きていく術を学ぶ。

そうして5年、10年とすぎ、30代から40代の声が聞こえ始めるころには、それでもなんとなく仕事がこなせるようになっていたり、後輩の指導をしていたりする。そう、実は成長していたという事。

 

明確に、「スキルが上がった!」とか、「時間が短くなった!」「点数が上がった」等々の測れるものがあると人はそれに頼りがちになる。そして「それ」をひとつの目標として、時にはキャリア設計までしたりする。

それはそれで間違いとは言わないし、それで成功している人たちもたくさんいる。

 

ただ、多分それと同時に、そこまで成長してきた結果としての、ある別の結果も受け入れる必要があると考えている。それが、成長の結果としての(何らかの)衰退。必ず衰えるところが出てくるもの。

それは分かりやすいところでは筋力であったり、暗記力であったりするのかもしれない。でもそれ以外のところでも、さまざまな形で力が衰えていくことがある。これは、生物としてある意味、仕方がないことであり、形あるものすべて滅びるのであるからして、避けようがない事実。

であるからこそ、逆の考え方からしてみれば、そうして衰えていく部分を補うような、別の部分の成長が必要になっているという事でもある、という考え方もできなくはない。

 

あるがまま、それを必死で支える、今までと同じような「見栄えだけ」を整えようとする人もいる。だが、その時代、年齢に応じた、その形や振る舞いが、対処があるのではないだろうか?それをどのように自分として取り入れていくか、組み替えていくのか。それが見た目なのか、外見ではわからない何かなのか、それとも動きや形に出てくる何かなのか、考え方なのか…。人に依ってて分様々で、それをそのように構築しようとする考え方も含めて、その人の成長であり、自信の形成過程でもあるのだろう。

 

それを、「意思をもって」そちらに動くのか、惰性に流されていくのか。

北極星を目指して歩いている人と、道なりになんとなく歩いている人とで、最終到達点が違うのは明白だろう。どちらに委ねるか、委ねたいか、かな。

 

 

適応せよ、同化するな

生物が生き延びてきた背景には、変わり続ける環境変化にいかに対応/適応してきたか、が重要らしい。気温変化を筆頭に、暑さ寒さ、湿潤と乾燥、生物が生きていくために必要な状況をキープしつつ、周りに同化することなく適応する事。

 

同化してしまうと、その環境が続いている間においては、非常に効率がいい生存形態となるだろう。だが、諸行無常。常に形あるものは変わり、変化していく。だから「その環境」に同化しすぎてしまっては、そこから少しでも変化したときには、大きなダメージを食らう危険性が高いという事だ。同化するほどに効率化しすぎるのはよくなくて、適応するほどに余裕を残していなければ、次の時代に向けての変化に対応できなくなるか、もしくは変化に対する遅れが大きくなるという事。

 

…と翻って昨今の経済環境を紐解く。

景気が思ったほど上向かず、どの企業も効率を上げるという事に血道をあげる。極限まで効率を上げて、この景気の環境に同化することでしのごうとしている気がしてならない。もちろん、この環境において儲けが出るほどに究極に効率化できれば苦労はないが、そうなったときにはたぶん間違いなく、次の変化が生まれている事だろう。変化に対応するためにはそれなりに工数を必要とし、今の現状におけるどこかで、今の状況における「無駄」を作り出さなければ、変化に対応できなくなる。

結果、常に何らかの無駄を使いつつ変化し続けなければ、たぶん、生物のみならず、企業と言う生き物も生き続けられないであろうという事。

 

同化するほどにまで対応するのではなく、適切なレベルで変化し続けよ。変化のためのコストを見積もり続けよということ。これは「無駄」ではなく、「成長への投資」なのだから。

本当にスゴイは

ある事象で、「いや、こいつはホントにすごいなぁ!」と感心する出来事があった。

 

で、ちょっと考えてみたのだ、それがどのくらいすごいのか?と。

そしてたどり着いたのは。

「実はすごい!と気づいていないところにこそ、本当に気づいてしまったとたんに、こいつはすごい!ということがあるのではないか?」と。「すごいとわからせない事自体がスゴイんじゃないの?」と。

 

欧米的文化圏からやってくる人たちと話をすると、彼らは、自分のアピールが大変うまい。何かちょっとしたことでも、すぐに手をあげ、「私はこんなにうまくやった」「わたしはこんなにできている」と自己アピールに余念がない。たぶん、子供のころからの訓練として、事あるごとにそうしたトレーニングがなされ、染みついているのであろう。

正直なところ、そうしてアピールされたこと自体がそれほどスゴイ事ばかり…と言う気はしていない。そんな程度なら日本人の〇〇君や××さんだってやっているはずでは?誰もがやっている当たり前の事では?と思う事しばしば。だが日本人はその時、そんな当たり前の事をアピールすることは(少なくとも小学校高学年以降は)ほとんどない。発表する際には、少なくとも「何か良い事」「少しでも改善できること」などが望まれており、(特に社会人になってからこちらは)「明らかに」周りからそう判断されそうでない限り、そうした自己アピールを出してこない。

違う側面で言えば、実は本当にすごいことを彼ら、彼女たちがやっていたとしても、多分内心ではけっこうやっていると思っていても、万が一の過小評価に合わないために、自己アピールしてこない。

でも、たぶんそこにこそ実は「スゴイ」は隠れていて、それはほかの誰もがそう簡単にできる事でない事が隠れていたりする。

 

だからね、たぶん日本人のアピールにおいての一つの障壁は、当たり前の事を「周囲が褒めない」ところにあるんだよね。当たり前を当たり前にできるって、実はすごいことじゃない。当人には当たり前すぎて、もうこの国に長年住んでいる人にとっては、あまりに「日常」になっていてすごさ加減がマヒしちゃってるかもしれないけれど。

であるが故に、当人も褒められ慣れていない。もう少し普通に自信を持てば良いものを、謙遜することで、いやいやそれ程でも…の雰囲気を前面に出すことがお約束になっている。

 

だから、ちょっと友達に聞いてこらん、隣の人に聞いてごらんよ、これどうですかね?大したことないっすか?とね。
と同時に、友達の当たり前もほめてあげようよ。お前すごいよね!あなたすばらしいよ!って。

周りを褒めて、自分も自信を持つ。要するにみんなが下を向くんじゃなくて、前を向かなくちゃいけないんだからさ。

 

子供の目線、大人の目線

子供の頃に気になっていた子/好きだった子は、大人になった今、同窓会の写真を見返すと、普通の子に見えたり。実はその子の隣にいる子が、大人の目線で見れば、この子はきっと大人になって可愛いよいこになっているんじゃないかなぁと思う子もいて、でも、当時は全く眼中になかったり。

 

どっちがいいとか、悪いとか、そんなことを言いたいんじゃなくて、たぶん、その時その時代、その年齢において、「見えているモノ」が違うんだろうなという事。

子供の世界はやはり小さく、日ごろの自分の生活圏、特に小学生であれば、せいぜい半径1㎞もあれば良い方だろう。その中で出会うであろう人は、時間帯も相まって、そんなにバラエティに富むものでもない。であるがゆえに、顔見知りになれたり、その人それぞれの良いところ、悪いところを感じていたこともあるだろう。

 

大人の世界は、仕事によって生活圏は様々。あまり人のつながりが広がらない仕事もあれば、日々全く違う人との出会いばかりと言う人もいる。前者であれば子供のころとあまり変わりはなさそうだけれど、後者はと言うと、一期一会。見かけで判断、一瞬で判断の連続とならざるを得ない。

そうして出来上がったであろう位置づけが強い大人の目線、大人の視線。何が見えているのか、何を見ているのか。もう一度意識してみるのもいいかもしれない。 

 

そしてそれと同時に、自分が「見たいものは何なのか」を意識しなおしてみるのもいいかもしれない。

意見を戦わせること

会議において、意見を言わないとか、いつも肯定しかしないなど、「それならその会議にいる必要はないではないか」という事を聞くことがある。

上記と同じ会社の同じメンバーの会議ではないかもしれないが、昨今の事情や流れを聞きかじって、それではと思い立って会議の中で、個人的に思う意見をバンバン言って、うるさい奴だ、反対派だ、などととらえられることもある。

 

まぁ安易に言い切るとするなら、会議に意見せよという方も、それに乗じて自分の言いたいことを無礼講のようになんでも言いすぎるやつも、どちらも勝手がわからなさ過ぎている、身勝手すぎるやつではないかと。

 

ただし、特に「発言しないやつは…」という方に関しては言いたいことがある。

それは、「意見を言え、発言しろ」と言うやつに限って、自分の気にする事だったり本気で反対されると逆上したり、恨みを買ったり、結構職位が高かったり年齢が上だったりすると、根に持たれて、その後の活動、キャリアに傷をつけられる、他で仕返しされる可能性がどのくらい残っているのかという事。

要するに、「発言における安全」をいかに確保してくれるのか?会議は会議で、それ以外において単なる力関係を行使しないという、信頼、約束があってこその、自由な発言ではないかと。

 

会議で発言できていない人とは、本当に意見も持たず/考えられずに、何も「言えない」やつと、意見はあるけれど安全性が確保されているかどうかがかなり怪しいから「言わない」やつと、二種類あるのではないかという事。そして、頭のいい奴、ずる賢い奴ほど、危ないことは「言わない」のだ。

職位が高い方が(その当人が思っている以上に)発言の内容に対して議論に対して「のみ」戦わせることを保証し「議論で戦いたい」のであり、逆に「仕事では、その議論をネタに権力を恨みのために振るわない」ということが意識できていて、それを表明、体現するからこその、それ以外のものが活発に発言できる土壌になりえる、ということ。

要するに、職位の高いものの振る舞い、権力を持つものの振る舞いが、他の多くのメンバーに信じられていない/信用されていない証として、他のものが、反対意見などを述べないのだよ、という事。

恐怖政治を引こうものなら効果てきめんだ。

 

活発に意見が出ないのは、極端な馬鹿か、安全に敏感で頭のいいやつかのどちらかだということだったりしませんか。そしてそれぐらい頭のいい奴でなければ、まっとうな議論にならないという事。

他では頭がいいように見える者が言葉を発する事が減っているということが意味すること。

泣けてくるぜ。