その先

僕は、僕がまだ知らないことがある、ということを知っている。

これが無知の知

この話を聞いた時には、それなりにかなり感動したりもしたのだが、と同時にそこから先の更なる悩みが生まれたといってもいい。 

それを認識したうえで、その知らないことをどう考えればいいのか?知らないことを考える?そもそもそれ自体が矛盾ではないのか?とか。

 

そう、知らないことを想像するのは大変むつかしい。隠されていることを暴く、本来あるべきものならまだしも、あるかないかすら知らないものがが見えなくなっている、隠されているということ自体が、とても難易度が高い探索。

学校に行っているうちは、「はい、こんなこと知らないでしょ?」と次々と知らないことを教えてくれるというのが学習の流れ。だが、それが終わり、社会人になると、自分で「知らないこと」を探し出し、それを学ぶことが必要になる。

たいていは、必要だけれどまだ知らない、だから学ばなければ…、といった動機で学び始めることが少なくないわけだけれど、場合によっては、どうにか今を打破したい、だから学びたい、でも何を?で大いに悩むことになる。

 

そんなときに役に立つ、よって立つよりどころなのは、実は「今知っていること」。今知っていることのその考え方、パターンは、かなりの種類の考え方があり、それらを当てはめることで、まだ理解されていないことを理解することに大いに役立つ場合が少なくない。…というか、事実上これしか手がないのだ。

であるからこそ、知っていることをまず増やし、知らないことにおいて、それに知っていることを適応していく。

ただ、すべてがすべて、同一のパターンが適応できるとは限らない。となった瞬間に、このパターンではなく、別のパターンは?それでもだめならまた別のパターンは?と数ある考え方を当てはめていく。結果、何かに当てはまればそれを同一のグループと理解し、もし当てはまらなければ、それこそが新発見となりえるということ。

 

要するに、知らないことを知るためには、知っていることを増やすことが重要になるという、ちょっと逆説的な結果状況。

だからこそ、知らものを探すために、知っているパターンを増やす。そしてそのピースが「あてはまらないことを見つけること」こそが新しい発見であり、大きな進歩につながる一歩になる。

 

だから、知らないことを発見しないといけないんだね。

そしてそのために、知っていることを増やさないといけないんだよねぇ。

 

 

サイズ感の時代

年末である。

そうでなくとも、宅配便業者さんは昨今、大変忙しそうだけれど、それにもまして忙しそうに街を駆け回ってくれている。本当に頭が下がる思いだ。

 

なぜそれほどまでに、配達業者が手いっぱいになるのかといえば、宅配でものを頼む人が増えたから。人のみならず、その人が頼む回数、頼む量も間違いなく増えているからだろう。

 

多くの皆さんが使っているであろうAmazon、最初は書籍の販売から始まった。それが今や書籍に限らず、ネットで扱えるものであればなんでもござれ…となってきている事情がある。

「本」ならば、そもそも実際の店舗で立ち読みをちらりとしてみて、その上でほしいな、でも持って帰るには重たいな…となったところでネットを経由して注文していた人はいただろう。それが今や、立ち読みで中身を見る行為自体を、他人の評価に任せ、一気にAmazonで注文する。リアル書店が戦々恐々とせざるを得ない状況がここにある。

 

とはいっても個人的には特に、衣料品はななかな買いづらかった…、昔は。それが今や、衣料品すらもネットでどんどんと買い付け始めている時代。まさに今のシーズンの、マフラーなど、サイズをあまり気にしないものはネット通販初期当時からでも購入していた人はいるかもしれないが、サイズ感が合わなければ、洋服はなかなかむつかしい。ウェストが、袖丈が、いろいろと長さが合わなかったり、色も気に入らなかったりと、好みもある。

しかし、そうして始めたネット通販も実質10年以上もたてば、あの店のサイズ感ならこのサイズでもいいかとなってくるところもあるだろう。そうなれば衣料品であったとしても、どんどんとネット販売で購入していく。

さらに、サイズ感は企業ごとに微妙な違いがあったりして、Mサイズでも、こっちはちょっと小さいけれど、この店はちょうどいいなどあり、結局、ちょうどよかった企業の者は、リピートしがちになってくる。

 

とこうして、なんでもネットで購入する、いわゆるウィンドウショッピングすらも、ブラウズショッピングで事足りる状況に変化してきており、アメリカを中心に?年末商戦がかまびすしい。

 

便利な世の中にはなっている。でも、何を失っているんだろうね。かならず、メリットの裏側があるはずなのだけれど。

 

 

いばらの道

会社経営の観点からすると、会社が傾き始めてから人減らしを始めるようでは遅すぎる。そんな「社内でだれもが不安」を覚えるような状況で人減らしを始めれば、当然ながら「優秀な人」から逃げ出し始めるのが世の常。だからやるなら、会社として経営が順調な時、堅調な時、儲けが増え始めているときにこそ、人減らしの施策を考え実行すべき。

 

人余り、求人倍率が1を優に超える、いわゆる労働者有利の状況においては、雇用者を絞るべき。そんな中では当然ながら、いいやつはあちらにもこちらにも内定が出ており、待遇等のいいところに引き抜かれがちで、良い人材に当たる確率は下がるはず。

逆に、景気が厳しい時にこそ、雇用者を積極的に取り入れるべき。そんな時にはどこも苦しく、優秀な人材であろうとなかなか雇用に踏み切らない。そんな時こそ上澄みの良い人材はより取り見取り。

 

ただ、上記のどちらにおいても、苦しい時に、より苦しくなる決断をせよと言っているに等しい。いわば、いつでも選ぶべきはいばらの道だということ。

べつにこれは「起業家」のみならず、多分、一個人においてもそのはずで、忙しい時ほど「自己研鑽の学習時間」をしっかりとるべきだし、忙しくなければいっそ有給含めてたっぷり休みを取って、たとえば一気にリフレッシュ休暇をとったりすると、また気分が変わったり、良い発想ができたりするもの。

でも往々にして、仕事がない、手が動かない状況になっていればいるほど、「働いているふり」をしたり、「無駄な作業で、忙しいつもり」を装う人が少なくないのが現在?

 

そう、忙しい時ほど勉強せよ、時間を作れということ。

暇なときには、たっぷり暇を享受せよ、ということ。

…思っていてもなかなかできないんだけどさ。

で、今忙しいですか?

トリクルダウンとは

昔の子供たち、わかりやすく言えば、藤子F不二雄の漫画に出てくるような時代の子供の集団においての話を想像してもらえば、ずれないと思うのだけれど、いわゆる運動はできるガキ大将がいて、ひ弱な頭のいい子がいて、のろまな愚図な子がいて…というグループが存在していた中で、それでもなんとなくグループになっていたり、遊んでいたりした理由は、そのリーダー格であるガキ大将が、それなりに資源を再配分していたからではないかと考えている。

時間や、儲けや、取り分や、いわゆるチームによって得られた利益を、(当人たちは納得していなかっただろうけれど)それなりの比率でチーム内に分配する。これが、不満こそあれ、適切にできていなければ、当然チームとして存続しているべき理由はなくなるわけで、早々に分解しても何らおかしくない。それがそう簡単に分解しないのは、確かに取り分に不満があるものの、このチームから出てしまって得られるものと、このチームから離れることにより苦労するかもしれない努力といったものをはじめとするデメリットをはかりにかけて考えるはずなのだ。

 

資本主義において、というか、昨今の経済政策において、トリクルダウンが語られることをしばしば耳にする。とりあえず上位の者で儲けが出れば、それがいずれは下位の者にも恩恵が降ってくるだろうとの考え方。でなければ、そもそも上位の者から取り上げる政策をしてしまうと、上位の者たちは、その金と実力をもってして、この国から逃げ出してしまうだろうということが、良く反論者から語られる。

 

結果、トリクルダウンに頼る政策をして何が起こるのか?

 

どうやら、世界において、トリクルダウンはたぶん、一つとしてまともに起きていないということらしい。要するに、上位の者たちは自分たちに入った儲けや資源を、できるだけ自分たちに有利になるように確保に回り、下位の者に滴り落ちてくるようなものはほとんどないということ。

考えてみればそうなのだが、上位の者と下位の者において、別にチームを組んでいるわけでも何でもない。さらに上位の者がみな、全体最適を意識しているか、目指しているかというと、昨今の日本の経済事情を考えてみても、「まずは自分が生き残るために」ということばかり考えている。だから、「自社が生き残るために」「自分の事業所が生き残るために」ということで、将来など保証されないのだから、取れる時にしっかりとっておかなくては…と儲けを最大化し、内部にため込もうとする。

結果として、お金が入ってくる企業においては内部留保が積み上がり、それがその組織の下位に当たるべき社員に還元されずにいるという状況が起きているということ。

 

何が原因でこのようになってきたのかは、人口減少をはじめとして様々あるのだろうけれど、とにかく起きている現象はこういうこと。まぁある意味、配分が適正でなさすぎると言うデメリットが大きくなった反面、一人で立ち振る舞える、他のグループが増え始めている、ソーシャル活動をするハードルが下がって来ていると言うのはあるだろう。

 

これまでの政治がまずかったのか、それとも、うまくいっていた時代における政治も、「政治政策」がうまくいっていたのではなく、そのほかの、たとえば人口増加要因がエンジンとなって、経済が回っていたにすぎないということなのかもしれないと考えると、あきらめにも似た感覚がよぎる。

 

どうやら大きな企業はボーナスのシーズンらしい。

ふぅ。

どんな数字も、お金でとらえてみる

年金支給年齢は、ずっと以前はずっと以前は55歳、一昔前までは60歳、今は65歳になっている。65歳に変更する…と決めて、65歳に代わるまでには、やはり「明日から」というわけにはいかないので、それなりの年月としての経過時間を経て変更している。

 

この年金支給を、まずは70歳に、ゆくゆく75歳にあげていかないと、そもそも年金システムが持たないだろうとの試算が出ているらしい。人口減少もあり、難しいところだろう。

そもそも、昨今の60歳は元気でもあり、十分に働けるという意見もある。もちろん、そういう人が増えているだろうことに異論はない。が、そうでない人は不安を感じていることだろう。そういえば、100年安心年金プラン…などという名前を聞いたことがあるのだが、あれはどこに行ったのだろうか?まぁそもそも信じていた人がどのくらいいたのかは怪しいものだが。

 

であるがゆえに、5年延期…という年月、これをまたかと受け止める前に、時間、期間の長さではなく、「お金」に換算してみると、また感覚が変わるのでは。

たとえば、よく言われる夫婦二人の標準世帯における年金支給は、国民、厚生年金あわせて、月額約20万円程度だとか。ということで、まぁ年間ざっくり220万円が、退職した世帯に支払われている計算になるとしよう。

 

…ということは、だ。支給年齢が1年遅くなるごとに、220万円分のお金が、国にとられている(というか、今まで払われていたものが、払われなくなる)という状況になるわけだ。支給年齢が5年遅れれば当然、1100万円分のお金が受け取れなくなるということ。ちょっとした資産に相当するのは言うまでもない、でしょ?

 

消費税が1%、2%上がることでやいのやいの言うけれど、年金支給「時期」のずれには鈍感な人がいる。

すべてお金で表してごらんよ、どう?