主客転倒

すでに、「ガラケー」という言葉ができるほどに、皆さんが通常使う携帯電話のほとんどが、「スマートホン」に切り替わっている今日この頃。そしてそのほとんどに、当たり前のようにカメラが付いているという現実。

デジタルカメラの老舗、カシオが、デジカメ事業を閉じるということもこの事象が影響していないはずはなく、現代は、ありとあらゆるところに、カメラが普及している時代。たぶん、いまから50年前の銀塩カメラメーカーのエンジニアの中にも、いかにしてみなさんにカメラを持ってもらうか、日常使いの道具にしていくか…と考えた人はいそうだけれど、ようやく今それが現実になっている時代。

 

じゃぁそのスマホのカメラで何をとっているのか?自撮りも流行り、「自撮り棒」なるものも商品化されているけれど、それと同じく、「インスタ映え」する写真も流行っていたり。

これはインスタグラムというサービスがあってこその内容ではある。要するにこのサービスは、ちょっとおしゃれな写真、おしゃれに見えるように加工できる写真を投稿することで、その投稿した本人のセンスや訪問場所、アイテムなどを自慢できるサービス。であるから、派手目に見えるように「盛れる」フィルター、写真に後加工できることも重要になる。…が、後加工しすぎるのも問題で、センス良く(ここ重要!)加工しすぎない写真が並ぶことに意義がある。

となれば、ある意味投稿した写真の並びが、当人のセンスを評価する指標にもなり、よりセンスある写真、見栄えのいい写真を投稿したくなる…という状況が現在かな。

 

当然ながら、商業サイドがこれに乗らないはずはなく、製品の見栄え、色、メニューの盛り付けなどに工夫を凝らし始める。
そんな一つとして、とあるレストラン?カフェ?がこんな店頭POPを出していた。

インスタ映えはここ!」

 

分からなくはない。最近のキーワード的には魅かれてくる人もいるだろう。だが料理を出す店の本分は何か?「お客が来て、金を落としてくれればなんでもいい」のならともかく、通常なら「おいしい料理を提供し、喜んでいただいたうえで対価/お代をいただく」という商売のはずだ。「味」を抜きにして、見栄えだけで勝負はあり得ないだろう。

 

別にこれは料理だけではなく、服でも、ガジェットでも同じこと。

見栄えのいい服だけれど動きにくいとか、耐久性がないとか。

新しい機能を搭載したガジェットだけれど、重すぎるとか、UIが悪くて使い勝手がよくないとか。

 

だから、「一つのキーワード」で勝負できる時代ではないという事。逆に、そのキーワードだけ掲げている店や商品は、それ以外のところは「当たり前にすごい味や性能」なのか、いやいや「そこはちょっと置いておいて…」と無視されているのか。

 

世の中には、そうして「今商売が成り立てばいい」というやからも少なくない。そしてユーザー、消費者には、そうしたやつらの商売を見据える、見抜く目が求められている…というのは、今も昔も変わらぬこと。これ、諦めたとたんに、見なかったことにしたとたんに、荒れ始めるんだよ。

 

 

成長の限界

個人にしても、組織にしても、当然ながら成長する。…が、個人も組織もどちらにおいても、メキメキと成長する時期もあれば、なかなか成長に結びつかず、踊り場状態で悶々としているところもある。

 

個人において、誰も「成長したくない」と思っている人はいないだろう。ただ、こういう風に考えて人はけっこういらっしゃるのではないだろうか?「失敗はしたくない」。

失敗せずにすべてがうまくいくという事は、人生においてまずありえない。極端に言えば、赤ん坊の時代から考えて、転けずに、躓かずに歩けるようになった人はいないのだ。「いや、こうしたここでは、失敗無く…」という事例があったとしても、それは一つは偶然なのか、もしくは、実は先達がきれいに敷いてくれていた「レール」の上を走っているに過ぎないからこそ、失敗せずに、非常に効率よく成長できたに過ぎないだろう。

今更言及するまでもなく、失敗があってこその成功、失敗すること自体が、「これをこうしてはいけない」という事を学び、成長しているポイントでもある。

 

しかし、社会に出てからこっち、やはり「失敗」はしたくない。とはいえ「現状」は打破したい。そんな人は、小さくとも挑戦し、いろいろ失敗しながら進んでいく、成長していく。
ただ、それもいつしか、「失敗して痛手を被る」ということと、「このまま、現状のまま進むこと」を秤にかけ、「まぁこのままでもいいかな」と思った瞬間に、たぶん成長が止まる。この天秤が傾かなくなるのがいつなのか?人によっては早々に。人によってはいくつになっても勉強だ、挑戦だと若手と張り合うことで生きがいを得ているような方もいる。そう、そういう人はいつまでも気も心も若く、たぶん、気持ちとして、心として成長し続けているのだろう。

 

組織において、そうした血気盛んな先達が率いるところは、たとえ長年社長が変わらずとも、どんどんと成長していく。
だが、社長が長年変わらずに成長が踊り場に来ているところは、なんらかのその上層部の意識が止まっているという事。成長の限界、リスクを取らずに行くことに甘んじている者たちが、物事を決め、差配している事態になっているという事。

「口では」挑戦だ、トライだ、新しいことを開拓だなどという人はいる。だが、じゃあということで下から「今までにやっていないこんな新しいことは?」と上げても、実はその上層部がイメージする方向での何かにつながらないのであるならば却下!という場合、事実上、それはもう成長の限界に近いのではないだろうか?

 

だからこそ、成長させるという事はむつかしく。後継者選びやビジネスの継続というのは盛者必衰であるゆえんなのだけれど。

今は見なくなった(変わっていく)

そもそも昔のアイドルは、若くしてデビューしているものがほとんど。であるから十年以上たっても現役でいることをもってして、古いという感覚にならない同世代の人たちもたくさんいる場合があって、そんな人が「もうデビュー〇周年なんです」というのを驚きをもって迎える人も少なくない。

 

宇多田ヒカルもそんな一人。宇多田ヒカル名義でAutomaticがリリースされて、もう20年になる現在。早い、早いよっ。

 

そんなAutomaticの中に出てくる単語、「受話器」だが、さて、今の高校生で、受話器と言われて、「あの受話器の形」を想像できる人、どのくらいいるのだろうか?

人によっては、「電話?それ、携帯の事?でしょ?」という人がいてもおかしくない状況。公衆電話も数が減り、昔で言う「家電(いえでん)」も、新規加入は減り続けているのではないだろうか。昔の「黒電話」という言葉をもってして、「あの昔の、黒い色の頑強な、NTT、ひいては電電公社時代の電話」を思い出せる人がどのくらいいることか。当たり前だが「黒歴史」の「黒」ではなく、ただしく「色の黒い電話」なのだが。

 

こうした商品やサービスはネットが発展することによりどんどん変わりつつあり、その意味ではこの20年は面白い時代、いや、メーカーにとっては激動の時代だったかもしれない。

ラジオも、放送電波で聞く装置としての意味付けもキープしながら、音質などを考えると、radikoという「通信」で聞く方法も普及し始めている。テレビも、放送ではなく、ネットの「通信」でお気に入りのストリーミングサービスに入っている人もいるだろう。

変わっていく。すべては技術発展に伴い、より便利に見えるほうへ。より楽に見えるほうへ。

ただしそれによる副作用だってもちろんあるわけで。昔の道具、昔のやり方にメリットがある場合だってあるのだ。別にすべてを残す必要はないけれど、どこかでもう一度、そのメリット、デメリットも検証したうえで、やはり発展させていくのか、いや、元に戻ったほうがいいのかは考えたほうがよくないですかね。

 

例えば、まだ電力に原子力は必要なのかな。あれだけの災害が起きるかもしれないリスクを、皆が「自分が被るとしたら」というリスクとして、受け入れる覚悟があるのかな?と。

 

 

 

価値の時間軸

すでにケータイに、スマホに搭載されたカメラが山のように出回っている時代。これほど「写真」が撮りまくられ、共有されている時代は、まず間違いなく過去にはなかったはず。

 

とはいえ、当然ながらそうしてとられた「すべての写真」が、意味のある素晴らしい写真のはずはなく、中には価値ある一瞬をとらえた写真もあるだろうけれど、大半が撮るに足らない日常の写真。ランチの一品や、友達とのふざけ合った瞬間をとらえた、他愛のない写真が、デジタルデータとして、Twitterで、Instagramで、facebookで情報発信されていく。

 

なんでそんな詰まんない写真撮ってんの、無駄無駄(失笑)。

確かに、今その写真を撮って、直後に見返してみたとしても、たんなる普通の量産品だとか、当たり前の風景だとか、そんな写真にすぎないだろう。そこにその瞬間に、その写真の価値を見出す人は、その中に移っている人や物に関係している人だけかもしれない。

 

…でも。

写真の価値は、それを「見返した時」に生じているんじゃないだろうか?たとえば今そうして撮った写真を、10年後に見返すと…、50年後の人がそれを見てみると…。

「おぉ、2018年の人々は、こんな環境で生活していたのですね」と、時代の空気、雰囲気、建物、環境等々がそこから読み取れることに。
個人でもありませんか?アルバムを整理する一環で、子供のころの写真を見つけたときに、あぁあの頃はこうだった、こんな感じだったよねと 

 

写真の価値は、見る時に生じるという事。だから「撮った時の価値、感覚」だけ、で測っちゃいけない。

 

効率化された未来

休暇中、有名書店のアルバイト店員が辞めたというBlogが話題になっていた。

どうやら本社からの指示に従うと、その現場(大学内の本屋)の要求にきちんと答えられず、現場からは意見を上げるが、画一化したい本社からの指示は変わらず…という結果らしい。

 

残念だ。そしてそういう声がネットの声として上がることが多いし、現に上がってまとめサイトもできていた。もちろん私も信条としてはそちら側なのだが、あえて反対側を考えてみる。

 

本屋に限らず、大企業において、細かな対応をして、それに見合う高い対価を皆さんからいただくことがむつかしい時代。であるからこそ、大規模にビジネスを展開していることによって効率化を目指す必要も出てくる。
荒っぽい言い方をすれば、すべてのサービス、すべての店舗の状況を画一化し、すべてを同一化して扱うことができれば、これで一つの効率化が図れる。今回の店舗はまさにそういう意味では異端の店舗であり、その企業(書店)としては「ほかの大きな効率化の上において、ここを見切ることはやむなし」の結果そうなったという事なのだろう。

 

本屋の話に限らず、こうした末端の店舗のサービス状況にあわなくなった「大本営発表」に従わざるを得ない状況はどこの会社においてもある事。要するにその会社がその現場の独自性のビジネス、その店舗を見限ったという事だ。経営サイドとして効率化を図るという事は、無駄をそぎ落とすという事の結果だろう。

なのでさらに逆に考えれば、本当にそこに「そのレベルの商品、サービス」を必要とするのであれば、それを提供してくれる別会社、別企業にサックリ切り替えるしかない。現代はそのレベルのサービスを受けるには、コストがかかるかもしれない、という事。

これはお店と利用者の関係のみならず、雇用主と労働者サイドにおいてもそうだろう。会社の方針として「このビジネスはやめることにしました」となれば、さっさと辞める事が必要。…なのだが、これが進まないのは、逆にそうしてやめた人を受け取る受け皿がなかなか見つからない事、雇用流動性が低いという事、さらに、ないと運営できない、でも高い対価は支払えないという事が問題となる。

(ある意味、自然物、食材などはわかりやすく、いくら努力しても、この時期カニは取れないとか、台風で作物被害が出たら、単価は上がらざるを得ないのだ。そうした価格の上下は許容するも、人が究極まで効率化を図るところは、ねじ込んででも安くしろ!なんて言うところが難しく…)

 

ただ、昨今の一つの流れとして、そうして受け皿がない場合、「じゃぁ自分で会社立ち上げちゃう」という人も出始めている状況。求められている場所があるのなら、たとえ小さくともそこでそういう形で提供することを、大本営と切り離して、こじんまりと始める。

たぶん、超巨大になった極限に効率を求める社会の反対側として、こういうビジネス運営の仕方はなくならないだろう。それどころか、小さなこうした同じような、でもひとつずつちょっとずつ違うサービスは、これからもどんどん出てくるのではないだろうか?だからこそ、amazonしか生き残らないことはなく、必ず細かなニーズに対応する小さな企業、サービスがひつように。

その意味では、今までにはなかった仕事はこれからも増え続けるだろう。〇〇屋さんとひとくくりにできない小さなサービスはこれからもどんどん増えるだろう。いわば、今はないサービスでも自分が欲しいものがあれば、それはチャンスであり、もしかすると新たな市場創造かもしれないと言うこと。

ほら、あなたならどんなサービスが欲しいですか?