ストック&フロー

「ストック」、モノをためておく状況を指し示す言葉だ。各家庭において、地域や組織、自治会等々において、緊急時の食糧備蓄や装備の備蓄などのことをストックと呼ぶことがある。
個々人において、必要最低限の(たとえば3日分の)食品、水をストックする、というのは、それはそれでよい事なのだけれど、これが企業の、しかも商売の話ともなるとちょいと事情が変わってくる。もちろん企業における災害時のストックはその限りではないけれど、メーカーなどにおけるストック、在庫だ。これはビジネスに直接、それもたいていの場合にはマイナスに影響する。

 

企業において、ストックはいくらか必要ではあるだろう。でなければ、売れ時に出荷することができず、販売機会を逃す要因にもなりかねない。しかし逆に、ストックが山ほどあればよいのか?というと、それはそれでお荷物だ。売れないかもしれないものをずっと自分たちで抱え続けるのは、それだけで場所が必要であり、当然場所代がかかり、さらに売れていないにもかかわらず材料費や加工費がかかっていることになる。結果として売れなければ不良在庫というわけだ。

 

となってくるとここでもう一つの考え方が出てくる。それが「フロー」だ。ビジネスをかじったことのある人は、キャッシュフローという言葉を聞いたことがあるだろう。いったい、その時期に、いくらお金が入って、いくら出ていったのか。結果としてストックはどうなったのか?こうした流れ、フローでとらえることで、ビジネスの健全性をとらえようとする。

 

自分たちがメーカーであり、自分たちでモノを作る、供給することができる際に、この考え方実質的、かつ意識的効果をもたらす。

それにもまして、昨今、個々人の家庭においても、ストックではなく、フローの考え方が入りつつある。モノを持たない生活、などと呼ばれることがあるかもしれない。

生活に最低限のモノだけを持ち、それ以外はフローで対処する。かつて「ウサギ小屋」と呼ばれた日本人の住宅環境からすれば、よりモノを持たず、必要最低限で暮らすというのは、それはそれで理にかなった生活スタイルとも考えられる。

ただし、これには前提が必要だ。

それは、そうした必要とするものが、安定的に供給され続けること。

 

もちろん、昨今の日常がそう変わりつつあるからこそ、それが選択できるようになったのがその生活スタイル。極端な事例で言えば、身近なコンビニを、「冷蔵庫替わり」に利用すれば、自宅に冷蔵庫は必要なくなる。いつでも新しい商品が、新しい状況で供給され続けるからこそ、そうしたスタイルを享受することができるわけだ。

この生活パターンは、たぶんそう簡単には崩れないのかもしれない。が、それこそ大地震や豪雪、大雨による被害などが出た瞬間に、いとも簡単にそのシステムは崩壊する。店に行けども水も食料もないコンビニ…というのが、震災のたびにtwitterに上がるのはそういう事。

となると、その際に重要なのがストックになってくる(最初に戻ってきた 笑)。そう、結局「ストック」というのは、特に個人においては「緊急時対応」というか「万が一対応」「リスク対応の力」に他ならない。その時に「自分としては」どこまで耐えられる耐性を持つべきなのか?

それは、お金さえあればよいわけでもない。モノさえあればいいわけでもない。地域や人とのつながり、心のつながり、情報としてのつながり、それぞれをそれぞれが持つことで、網の目となり、それらが幾重にも折り重なって地域が何とか回り続ける。お金とモノに限らず、様々な別ルート、別手段によってリカバリーできる状況を作っておくこと。

 

「人」がここまで進化してこれたのは、弱肉強食ではなく、人と人とが互いに助け合い、社会を形成してきたからだ。その強さを発揮するために、若干のお金はあるに越したことはないが、逆に言えば「お金だけ」ではどうにもならないのは言うまでもないだろう。

日本の現状から未来を想像すると、お金持ち老人の孤独死が、たぶんこれからも増えていくのだろう。そこに死蔵され、使われない、経済に還元されないお金を引き出し、お金だけで担保しようとしているところを何とかほかの形での対応策で補い、不安を解消する作が急務だろう。と同時に、経済的、金銭的に不利益を被っている世代をどのように巻き込むかは、結果的に利潤の平準化をもたらし、より安定した社会、安心できる生活空間を生み出すことにつながらないだろうか。もしそれができなければ、日本は明らかにしぼんでいくだろう。お金持ちの老人が、棺桶に入れることのできないお金を抱えて死んでいく。老人経済こそ、フロー重視にならなければ、お金を出すことによって別手段の安心を得られるシステム作りをしていかなければ。お金をため込んだところで何の意味があるのだろう。使ってなんぼ?でしょ?

 

正気を取り戻すために

信教の自由があるゆえに、様々な宗教が成立していること自体に、特段不満はない。だが、時に「カルト集団」的な、極端な考え方、思想がうまれ、それらに洗脳された集団がおかしな行動を起こすと、社会はとんでもない混乱に巻き込まれることになる。社会を守るために、それら集団は注意深く監視され、扱われなければならないと考える人もいる。

だが、この考え方の大前提として、「大多数の私たちはまともだ」という立場が、暗黙の了解として成り立っている必要がある。たいていは、これ自体を疑ってしまっては考えの依って立つ部分が揺らぐことになるので、その前提は崩さないのが普通だ。だが、ほんとうに「常に」それでよいのだろうか?自分たち自身は大丈夫なのだろうか?カルト集団の中にいて、そんな自分に疑問を持つ事自体が難しいような、そんな状況に陥っている自分たちはいないだろうか?

 

たとえば今の日本の首都圏の通勤状況。余程近い場所で生活できている人を除いて、たいていは職場まで、ドアツードアで1時間から1時間半ほどかかる人が大半ではないだろうか?となれば、1日24時間の内、2時間から3時間が「通勤」で費やされているということになる。ここで消費されるエネルギーや労力は何なのだろうか?

窮屈な列車内に押し込まれ、みんながスマホを眺めている。この時間たるや1日何万時間に相当するだろうか?この非効率さは何なのだろうか?会社に着いた途端に「フゥー、疲れた」から始まる職場はただしいのだろうか?

 

さらに言えば、昨今の首都圏は「列車が遅れるのが日常茶飯事」になりつつある。もうかつての日本のように、「列車は遅れない国」ではない。かつての古き良き時代を懐かしむのは良いのだが、現状を見つめよう。

多数の路線の乗り入れができて、「通常運航できる前提」ならば、乗り換えが減る分、大変便利になった。その反面、どこで事故が起こっても、かならずあちこちに影響が伝播し、全体がいつも調整状態、遅れがちな状況になりつつあるのが昨今の鉄道事情だろう。これが当時期待していた未来像だったのか?

 

この「日本という集団」の異常さは、中にいては「それが当たり前」となって感知できていないことが少なくないのではないか? 時に海外赴任になったりすると、日本の異常な状況を俯瞰的に見渡すことができるようになるとも聞く。まさにそうして「日本国内のおかしさ」をきちんと意識し、声を上げていかなければならない状況ではないんだろうか?政治も、経済もなにもかも。

(もちろん、中にいるからこそ、当たり前すぎて幸せな状況を享受できていない部分もあるだろう。犯罪などに対する安全度はどうやら半端なく高レベルな社会だそうだ。)

 

すでに少子化が始まり、日本の人口はピークを越えて減少傾向が顕著になりつつある。あくまで私の予想だが、たぶん人口が減ったところで、上記のような通勤事情はそうそう軽減はされないだろう。結果減って行く分は「地方」での減少となり、それ以外はやはり首都圏にわらわらと集まることで、人口減少と同じ勢いでの通勤事情改善にはまずつながらないと想像する。…となれば、今から30年後、50年後でさえ、いまより「少し」ましな通勤事情でいいのだろうか?多くの人がある程度の共通イメージとしてなっとくでき」「日本の未来の姿」がつくれない、そういう風にリードできる政治家が現れない事が、悲劇なのかなぁ。

 

リスクの根元

ある規模の仕事を任されて、リーダーや、マネジャーとしての責務を負いながら進める場合、リスク管理は避けて通れない。にもかかわらず、多くの人々がリスクに対する基本的なアプローチを学ぶ機会を経ずして現場に放り込まれることが少なくない。

 

とはいえ、多くの人がリスクの洗い出しは経験しているだろう。「〇〇が起こるかもしれない」なんて言うリスクを、一度くらいは考えたり、紙に書いたりしたことがあるのではないだろうか?

日常においても、様々なリスクはある。「今月の家計/お小遣いが厳しくなるかもしれないリスク」なんてのは、大半が「今日から出費を減らそう」に落ち着くのが常道だろう。ではこの対策は「何に対して対策を立てているのか?」なのだが、そのリスクの「原因」に対して対策を立てるのが常。であるからこそ、複数の原因でそれが起きる場合、それらすべての原因それぞれに向けた対策が必要になる。また複数の原因が「そろって」発生するのか、「その一つでもあれば」発生するのかによって、またまた対策の立て方は変わってくる。複数要因がそろって初めて…という場合、どれか対策を打ちやすいもの一つに絞って対策を打っても効果は見込める。だが「一つでもあれば」になれば、それら「全ての要因」に対しての対策が必要になる。

 

社会人になり、それなりの経験を積んだ管理職でさえ、こうした違いをきちんと整理して理解している人は、案外少ない。

まずは原因を明確にしよう、そして根元にたいして対策を打とう。たぶん最も効果がないのは、「怖いね、嫌だね…」と言うだけ。感情を吐露するだけでは、根本的な行動に繋がらない事では無いだろうか。

 

正しい姿を凝視する

今の日本は、もちろん素晴らしい部分、クールなところもあるだろうけれど、そうでないところも当然ある。特に、過去に世界を引き離すほどの栄光を得ていた部分では、過去がすごかったことを良いことに、現状を見ない、見たくない人が多すぎませんか?

 

もうGDPは中国の半分以下だ。

首都圏の列車は、ほぼ毎日遅延している。

給与水準は世界基準で見るとさほど高くなく、貧困率は上昇している。

高プロなど非正雇用の社員を増やす方向に社会は動き出しており、これにより「専門性が高い人は、きちんと価値分だけ高く雇用される」という方向へと動けば、それはそれで意味があるのだが、だが多くの人々に見えている/想像されている未来はといえば、「たぶん今以上に給与が引き下げられ、雇用主側のコスト圧縮手法として使い倒される」というのが関の山ではないだろうか。

 

何も、ただ単に落胆せよというつもりもなく、今の自分の姿を正しく認識しようというだけだ。でなければ、改善も、正しい対応も、できるはずがない。働き方改革ももちろんそうで、社会がそちらに変わるのならば、それに対応せざるを得ない状況だという事。

周りの状況を正しくとらえることなく、自分は不幸だ、以前のように何とかしろ…と声を荒げていたところで何の改善策にもならない。周りのすべての変化を止めることができるのなら、あなた自身が変化する必要はないけれど、周りは変わり続けるのだ。だからあなたもそれらに合わせて変化し続けるしかない。もちろん、変化せずに良い状況になるのならそれも一つの選択肢だが、たいていはといえば、自分に悪い状況へと変化しがち。だからこそ「変わらない事」「とどまり続けること」自体が、大きなリスク要因となる。それでもとどまり続けますか?

 

まず今の正しい状況はどうなのか?それに対してどうなっていきたいのか、そう変化できるのか?目指すものがあってそちらの方向へと動きをとらなければ、闇雲に動いたところで、自分の都合のいい未来は開けないだろう。

 

 

正義 から

子供のころは、特撮などのテレビ番組も盛んで、スーパーヒーローにあこがれることもある。自分があのヒーローになり切り、優れた能力で人々を幸せにする「正義の味方」になれるわけだ。

 

だが、「正義」とは何なのか。自分としての正義はもちろんある法則やルールに則って定義づけなどができ、「そこから外れたもの」が「悪」になるわけだ。だがそれでは「自分」は絶対的正義なのか?本当に自分に間違いはないのか?「自分が正しければ誰かに害を及ぼすこと」も含めて「正義」なのか?

こう考えだした途端に、正義の位置づけが危うくなる。当たり前ではあるけれど、そうした事を教えてくれる子供向け番組なども多数ある。ガンダムなど、ある意味その典型だろう。戦いとは、戦争とは、「正義と悪」との闘いなどではなく、実は「正義と正義」との闘いでしかないというのはどんなストーリー、映画、小説等々においても当然のこと。誰かの視線での「正義」は、当然ながらその反対の視線がどこかに存在することがあり得るという事。

 

という理解が始まったとたん、「じゃあ考えたって無駄じゃないか」と傍若無人にふるまう人と、「であるからこそ、慎重に行こう」と周りの人に気遣いながら物事を進める人と。あまりにきれいに二つに分かれるのは見ていて面白い。

その中でも、「考えられない人」ほど傍若無人になる気がして、自分主義、利己主義でしょうがないじゃないかとふるまっているように見える。気づかいすることすら考えられない、見られない、観察できない、考えられない、が原因の一つだと思われる。

 

話は変わるが、東大の入試をAIは突破できるのか?ということで「東ロボくん」というAIの開発がすすめられたことがある。すでに書籍にもなっているのでご覧になった方がいるかと思う。東大はまだ難しそうなのだが、とは言えすでにかなりの数の大学をAIは突破できる状況になってきているらしい。
その研究を通して反対に浮き上がってきたのが、読んで理解できない人、論理的に読み取れない、考えられない人々の存在だ。少なくとも現状のAIは、パターンと確率で答えを出している。がそれの裏返しとして、「考える」というところが苦手らしい。論理的思考を駆使するという部分がうまく解析できていないというところとも言えるだろう。

 

人がこれからも、少なくともAIに仕事を奪われないようにして価値を保って生き続けていくには、論理思考、考えることからは逃げられないだろう。まぁそれをもってなのか、小学校あたりから「プログラミング学習」などというものが始まるらしいのだが。そもそも順序立てて考える、論理として考えるという癖、考え方を都度都度イメージし続けなければ、その場限りではうまくいかないのではないだろうか?

いや、難しいことではないはず。全ての「理屈」を想像してみれば?という事なのだから。