トリクルダウンとは

昔の子供たち、わかりやすく言えば、藤子F不二雄の漫画に出てくるような時代の子供の集団においての話を想像してもらえば、ずれないと思うのだけれど、いわゆる運動はできるガキ大将がいて、ひ弱な頭のいい子がいて、のろまな愚図な子がいて…というグループが存在していた中で、それでもなんとなくグループになっていたり、遊んでいたりした理由は、そのリーダー格であるガキ大将が、それなりに資源を再配分していたからではないかと考えている。

時間や、儲けや、取り分や、いわゆるチームによって得られた利益を、(当人たちは納得していなかっただろうけれど)それなりの比率でチーム内に分配する。これが、不満こそあれ、適切にできていなければ、当然チームとして存続しているべき理由はなくなるわけで、早々に分解しても何らおかしくない。それがそう簡単に分解しないのは、確かに取り分に不満があるものの、このチームから出てしまって得られるものと、このチームから離れることにより苦労するかもしれない努力といったものをはじめとするデメリットをはかりにかけて考えるはずなのだ。

 

資本主義において、というか、昨今の経済政策において、トリクルダウンが語られることをしばしば耳にする。とりあえず上位の者で儲けが出れば、それがいずれは下位の者にも恩恵が降ってくるだろうとの考え方。でなければ、そもそも上位の者から取り上げる政策をしてしまうと、上位の者たちは、その金と実力をもってして、この国から逃げ出してしまうだろうということが、良く反論者から語られる。

 

結果、トリクルダウンに頼る政策をして何が起こるのか?

 

どうやら、世界において、トリクルダウンはたぶん、一つとしてまともに起きていないということらしい。要するに、上位の者たちは自分たちに入った儲けや資源を、できるだけ自分たちに有利になるように確保に回り、下位の者に滴り落ちてくるようなものはほとんどないということ。

考えてみればそうなのだが、上位の者と下位の者において、別にチームを組んでいるわけでも何でもない。さらに上位の者がみな、全体最適を意識しているか、目指しているかというと、昨今の日本の経済事情を考えてみても、「まずは自分が生き残るために」ということばかり考えている。だから、「自社が生き残るために」「自分の事業所が生き残るために」ということで、将来など保証されないのだから、取れる時にしっかりとっておかなくては…と儲けを最大化し、内部にため込もうとする。

結果として、お金が入ってくる企業においては内部留保が積み上がり、それがその組織の下位に当たるべき社員に還元されずにいるという状況が起きているということ。

 

何が原因でこのようになってきたのかは、人口減少をはじめとして様々あるのだろうけれど、とにかく起きている現象はこういうこと。まぁある意味、配分が適正でなさすぎると言うデメリットが大きくなった反面、一人で立ち振る舞える、他のグループが増え始めている、ソーシャル活動をするハードルが下がって来ていると言うのはあるだろう。

 

これまでの政治がまずかったのか、それとも、うまくいっていた時代における政治も、「政治政策」がうまくいっていたのではなく、そのほかの、たとえば人口増加要因がエンジンとなって、経済が回っていたにすぎないということなのかもしれないと考えると、あきらめにも似た感覚がよぎる。

 

どうやら大きな企業はボーナスのシーズンらしい。

ふぅ。

どんな数字も、お金でとらえてみる

年金支給年齢は、ずっと以前はずっと以前は55歳、一昔前までは60歳、今は65歳になっている。65歳に変更する…と決めて、65歳に代わるまでには、やはり「明日から」というわけにはいかないので、それなりの年月としての経過時間を経て変更している。

 

この年金支給を、まずは70歳に、ゆくゆく75歳にあげていかないと、そもそも年金システムが持たないだろうとの試算が出ているらしい。人口減少もあり、難しいところだろう。

そもそも、昨今の60歳は元気でもあり、十分に働けるという意見もある。もちろん、そういう人が増えているだろうことに異論はない。が、そうでない人は不安を感じていることだろう。そういえば、100年安心年金プラン…などという名前を聞いたことがあるのだが、あれはどこに行ったのだろうか?まぁそもそも信じていた人がどのくらいいたのかは怪しいものだが。

 

であるがゆえに、5年延期…という年月、これをまたかと受け止める前に、時間、期間の長さではなく、「お金」に換算してみると、また感覚が変わるのでは。

たとえば、よく言われる夫婦二人の標準世帯における年金支給は、国民、厚生年金あわせて、月額約20万円程度だとか。ということで、まぁ年間ざっくり220万円が、退職した世帯に支払われている計算になるとしよう。

 

…ということは、だ。支給年齢が1年遅くなるごとに、220万円分のお金が、国にとられている(というか、今まで払われていたものが、払われなくなる)という状況になるわけだ。支給年齢が5年遅れれば当然、1100万円分のお金が受け取れなくなるということ。ちょっとした資産に相当するのは言うまでもない、でしょ?

 

消費税が1%、2%上がることでやいのやいの言うけれど、年金支給「時期」のずれには鈍感な人がいる。

すべてお金で表してごらんよ、どう?

 

 

プレミアムフライデー、その後

プレミアムフライデー。私の仲間内、旧知の友人の間でも、あまり恩恵をうけている人の話は聞いたことがなかった。それが、ひょんなことから、ある影響が出ているという話を、自宅の身近な場所で見聞きした。

 

近くの美容院。土日は当然のことながら繁盛しており、プレミアムフライデー以前も、金曜は遅くまで受け入れており、人気店舗。

たまたまある平日の金曜日に休みを入れて、そこで話をする機会があったのだけれ、そこで「実は今日、夕方から込み始めてるんですよ、予約が」という話に。そう、プレミアムフライデーである。

 

通常なら平日昼に、予約などそう入らないはずの月末金曜日、15時あたりから徐々に予約が埋まり始め、16時、17時はかなり込み合っているとのこと。

ただ、周りにおいて、そんなに大きな企業がある場所ではなく、いわゆるベッドタウンの一角でもあり、大企業にお勤めの方々が帰ってきてというのもむつかしい位置付け。そう考えると、いわゆる地域の中小企業において、プレミアムフライデーを「周りもするなら、じゃあうちも…」というきっかけ程度にはなっているらしい。

 

要するに、これまでの商習慣においてもそうだけれど、大企業はやはり新しい方向性への変更、「舵取り」がむつかしい。そうそう巨体を大きく揺るがすような変更はできない。だが中小企業なら?ここなら、社長の目が届く範囲で、臨機応変に対応を打てるというもの。周りの企業も変わるなら、ならうちも…ということとして当然起こってしかるべき結果だろう。

 

すでにマスプロダクトで勝てそうな大企業が日本にどれだけ生き残れるのかすらかなり怪しい状況に。そもそもこれから中核を担おう、いやすでに担っている世代の多くは、バブル後に社会人になったであろう世代であり、目立った成功体験、経済が目覚ましく発展するイメージを、体感として得ていない世代でもあるのではないか。

これからはもう発展しない…とは言わないが、それでも以前のように目覚ましく発展するのはかなり厳しい状況。なら、自由に、思ったように采配を振るう、もうけ一辺倒ではなく、足るを知る経営というのもありではないかとおもうのだがいかがだろうか?

 

 

合理的判断の前に

そもそも経済学などの前提として、人は合理的に判断する、という事を前提に理論だてられているものがある(今はそうでないもの、確率論などもあるようだけれど)。

 

もちろん、マクロに見れば合理的判断につながっているところもあるのだろう。だが、個別の心理においては、必ずしもそう判断できていない人もいる事だろう。

そんな個人がいたとして、何かの決断を下すのを迷っているとき、自分だけではどうしても決断できずに、誰かに相談したりする。そんな時。

 

その友人が、冷静に、客観的に、今の現状をかなり正確に分析し、

「だから選択肢はこれとこれだ。合理的に考えるとこうしたほうがいい」

と助言を与える。これにどう対応するか、できるか?だろう。

 

たぶんまず何を言われても、どんな助言でも、まず間違いなく迷うだろう。

「そうか、でもなぁ…」

それでも言われた通りの選択肢を選ぶ場合もある。この場合何が起きているのかと言うと、合理的判断に従ったとも言えるが、とにかく自分の中で決断しうる「納得」をしたということではないだろうか。

その判断に従わない場合、たぶん現実にはこちらの方がよく見るケース。それは合理的判断そのものを疑い、もしかしたらまだ見落としている何かがあるのではないかと疑ったりする。要するに納得できていないという事だろう。

 

結局物事はいつも同じで、どこまでのデータをもってして「現状十分なデータ」とするかで迷い、そしてそれを用いて「客観的分析」をどのような手法、切り口で見るかで迷い、その上で「合理的判断」と呼ばれるものに「納得」できるかできないか?という決断に至るに過ぎないのでは?

 

こんな不確実性、主観、自分の納得度ですべてが決められていくという事。どんな合理的判断も、多くは納得なしには進まないし決断されない。「それでも自分はそれを選ばない」という事はあり得る。

でもたいていその場合は、その先の「夢見る未来」があり、それ有木の決定を選びたいがための手段になっていたりする。より良い未来を選択するという目的ではなく、自分が選びたい未来に向けての手段を選択するという事にすり替わっている。

 

何はともあれ、ゴールと、手段と、それらを両手に持ちながら常ににらみながら、決め、進めていく。たぶん、死ぬまで悩むんだろうな。それが人生。

いつまでも決められない、逡巡の時間が積み重なる…と考えると、末恐ろしい。

記録は限りなく増殖する

約10年前、別のSNSで、自分が持つデジタルデータの記録容量をざっくりと計算してみたことがある。

当時の記録で、1Tから2T弱の間くらい。写真やビデオが増えつつあることを考慮して、将来は10Tくらいかな?とか暢気に構えていたが、今やそれすら超えつつある現状が見え始めている。

 

皆さんご存知の通り、すでに「写真」は、生活にしっかりと根付いた感がある。裏付けるかのように「インスタ映え」という言葉が普通に使われるし(流行語?)、店の側の商品の作りや展示も、それを意識したものになっているのは言うまでもない。そのくらいケータイ/スマホにカメラが付随しているのは当たり前であり、それで写真を撮り、友達と、見知らぬ誰かと、それを共有し、共感する事/される事が、楽しみになっている世界になっている。

…であるがゆえに、写真も、そしてビデオも、それ以前とは比べ物にならないくらい皆が撮影し、そしてその品質、画素数、ファイルの大きさが、(当時想像をする事さえなかった)尋常じゃない大きさに育っている。

 

ビル・ゲイツが当初パソコン用システムを開発したときに、640KBの壁を「こんな大きさ以上のものは必要ない」などと言ったらしいけれど、すでに現在では写真1枚で、3GB, 4GBの大きさのファイルになっていることは当たり前の世界になっていることを思うと、めまいすら覚える。

 

話がそれたが、これにより問題になっているのは、ためておく場所、ストレージの話だ。HDDも、SSDも、10年前に比べると相当大容量にはなっているけれど、それ以上のスピードで、ユーザーのデータ生成量が増えている現在、とてもではないけれどまともにサポートできていない事実が存在する。それは特にデジタルに疎い個人宅内において顕著であり、それぞれの過去の機器の中、記録装置の中にそのままに放置され、やがて使えなくなったり、稼働しなくなった装置の中のコンテンツが、そのまま失われて行っている状況が目に浮かぶ

 

結局、いくら記録にとれたとしても、それをまともにためておく手段、装置、リテラシーが伴わなければ、きちんと「記録として」継承されないという事実。これは人知を超えるスピードで増殖しているという弊害と言ってもいいのかもしれない。まぁデジタルに限らず、アナログ時代からの記録もそうなんだけどさ。けど、根本的対策は、物理的限界などもあり、なかなか厳しいものがあるんだよね。

 

結局、どこかのストレージサービス会社に頼るしか手はないのかね。

データを手元に置いておく時代ではなくなったのかな。