寛容たれ

今の日本の社会では、ネットが整備されて様々な意見が飛び交うという、ある意味での良い環境ができた。が、反面、それらの意見が気に食わない人々が、正面切って戦えるという環境にもなった。

 

意見の違いがあるというのは、すべてが同一の人物、同一の経験値を持つわけではないため、当たり前のことだ。それぞれの立場、理解により、様々な意見があるのは仕方がない。
ここまでネットが発展する以前には、そうした違う意見、反対意見があったとしても、表明する場がなかったし、ほとんどの人は、その情報自体を多数と共有する必要もそして術も無かった。

だが昨今はそれが多数に広まるのみならず、そうした意見に反対を表明できるようになった、しやすくなった世界。なのでちょっとしたきっかけで、勇気で、反対を口にできるようになった。

 

そうした環境が整備される以前の日本では、そうした事を口にすることはわりにはばかられた雰囲気があったのではないか。「そうか、あいつはそういう考え方なのか。俺は違うけどな…」と心の中で思いながらも、あまり表明はしなかった。

そう、違う意見はあっていい。さらに譲ればそれは言っていい。まったく口に出して構わない。ただ、口に出した者だけが正しいというわけでもなかった。正しいことも広まりにくかったけれど、毒素となるような反対意見も広まる術を持っていなかった。

だが昨今の流れの中で受ける印象の一つは、刺激ある、過激な意見のみが拾い上げられやすくなり、それに対して黙っているのなら「認めた」とみなされかねない状況。いや、そいつは違うだろうと。

 

違う意見は存在する。それは口に出して言っていい。だが、口に出さなくとも違う意見を持っているものもある。

違う意見を持つことも、持たないことも「認める」。その意見に賛同することも、反対することも「認める」。そして反対意見を口にすることも、「しないこと」も「認める」べきだろう。黙っていたからと言って容認ではない。違いを味わえ!謹んで意見に耳をかたむけろ。

 

様々な意見に寛容であるというのが理想だ。口にする人もしない人も、反対する人も賛成する人も。不寛容な態度に不寛容であれという態度。

 

ある人が過激な意見を言った人に語った。

「あなたの意見にはまったく賛成できない!だが、そうしたあなたのような意見を言える事/状況は、断じて守るべきだ」と。

 

難しい世の中だ。反対派さえも味方にする、一段高い視野が必要なのだから。

 

ネットによる分断

ネットが発展してきて、SNSなどが誰もが使えるようになり、そしてスマートホンを普通に誰もが使える時代になったことで、とても便利になった反面、結果的に誰もが無口にならざるを得ない時代に入り始めている気がする。

 

自分の意見を言いやすくなった…がために、誰かに攻撃されやすくなっている。だから誰にも傷つけないように配慮しながら…となると、そもそも発言自身が言いにくくなる。万人に受け入れられて、誰からの反対も飛んでこない意見などありえない。それぞれに利害が微妙に違い、であるがゆえに誰かの利益は誰かの不利益につながる。
これらを考え合わせると、そもそも意見を言うこと自体が面倒になり、じゃぁもういいか…と何も言わなくなる、言えなくなる。

そう、自由になったから、便利になったからこその、言えない世界、言いにくい世界が広がりつつある気がしている。

 

対策は?というと、これまた根本的対策がむつかしいというのが常。言論を統制するわけにもいかず、どの意見は良くて、別の意見はダメ…は困難だ。

 

あくまで私の個人的印象だが、これは昔ながらの日本ではなく、欧米の色合いの濃い、意見交換の場だと感じている。
昔の日本は、それぞれに意見は持っていたものの、(当たり前だが)それを公に表明する場もほぼなく、それぞれの意見がそれぞれの個の中に押し込められていた。「サイレントマジョリティー」という言葉があったことが象徴するように、皆の意見は、暗黙の段階で黙って共有されていた。もちろん当時にも自分の意見を公言するものもいたわけだが、どちらかといえばそれは庶民的やり方ではなく、過激なやり口に見ていた人が少なくなかったように思う。

それに比べ、今はだれもが口にし始めている。システムが簡素化し、ツールが行き渡っていることによる簡便さが、このような、ある意味安易な環境を生み出している。
無視し続けることもできなくはない…。が、それは現状においては敗北につながりかねない。正しく反論せざるを得ず、このエネルギーは膨大な時間と労力を必要とする。

 

であるからこそ、一般素人は黙り始める。SNSは炎上するから見るけど意見は言わ…というひとえ、あなたの周りにいないだろうか?もういいか。めんどくさいか。そして個は黙り始める。声の大きいもの、そこにエネルギーをつぎ込めるものだけが社会をドライブし始める。

無視したいわけではないが、他の良い施策がなくて黙り続けている人々。

大丈夫だろうか。日本。

 

 

情報の賞味期限

ネット上の情報、記事、つぶやき等々は、基本的にそのサイトがなくならない限り、物理的に閉鎖しない限り、永遠に残り続ける。最近の「攻撃」の傾向として、そうした過去における記事、事件、つぶやきで、当時のコンテキストを無視してやばい部分だけをあげつらって相手を貶める、という事が出てきているようにうかがえる。

これ、大丈夫だろうか?

 

もちろん、良い面がなくもない。そうしたいつまでも記録に残るからこそ、抑止力として働くというのはよく言われることだ。

 

だが、良いことであれ悪いことであれ、情報には賞味期限というものがある。対比するには良いたとえではないと分かりつつ書いてみるが、犯罪だって時効という期限がある。そんなに長い期間を経てまで問われ続けない事もあるという事だ。

 

ネット上で取り上げられた些細な内容、つぶやき、投稿にかんしてまでそうして監視されたり掘り返されたりすると、今の風潮では、確かにそれがわかってしまっては対処せざるを得ないとなるのかもしれない。だがそれが過剰に働きすぎれば、やがては自分たちで自分たちの口を閉じざるを得ない方向へと進むのではないだろうか?

 

いや、これとて「最初にやるやつ」は得をするのだろう。だが「みんなでやり始めた瞬間」に全員が不利益を被る。まさに囚人のジレンマそのものだと思うのだが。それを最初にやったやつが、完全に悪ではないところが難しい。でも明らかにその道を突き詰めすぎると、自分たちの首を締めかねない技術ってありますから。

終身雇用崩壊にはじまり

すでにこちらでは何度も書いているけれど、日本の終身雇用制度は、もうすでに形骸化している。一部公務員などには残っているのかもしれないけれど、多くの企業においては、割増退職金を積んだ「金銭解雇」は当然のこと。

 

日本においてよくあるのが、「文面上認めていない」けれど「事実上横行している」という事。外国人労働者でもそうだし、もうすでに日本は国連基準からすると、外国人労働者を大量に受け入れている国の一つに他ならない。

日本人が海外へ行って「いや日本は受け入れていないから…」などとスタンスの話をするといきなり話が困窮する。それほどまでに日本はダブルスタンダードに見える側面を持ち合わせている。

 

これは私は子供のころから思っていた。ルールがあるのにそれを時に破る大人がいる。それは守るべきなのか、破ってもいいのか?大人に聞くと「その時々で判断しなさい」なんてややこしい事を言う。もうそれ、ルールがないに等しいじゃないかと。

だが大人になればなったで、その意味合いもわかる。すべてを規制すると、それはそれで厳しすぎる。場合によっては許してもよい側面もなくはない。だが、基本姿勢としては許されないにおくべきだ。こういう状況はどこにでもある。であるがゆえに「例外のない規則はない」ともいわれるという事。

 

たぶん、何十年前はそれでもうまく回せていた国、それが日本だ。だが、そうした例外を設けた瞬間に、多くが冷害に気付き、その例外によるメリットを多くが享受し始めると、そもそもその時点で例外ではなくなる。というところからルールが破綻するのだ。

かといって、厳しすぎるルールは、手間を増やすばかり、やりたい事の本質にたどり着けずに全員が不快感を示す。

 

要するに、ルールを作る側のみならず、ルールを使う側も「節度をもって」使わなければ、結局のところギスギスした世界になるという事。

使うほうも頭がよくなくては成り立たない世界、それが現在ではないのか。

裏返して言えば、それが使えるほどに、使う側の頭は良くなっているのか?よくなる努力をしているのか?

 

工夫をすると(働き方改革)

今、日本社会は、高効率、高生産性を唱えている。(とはいえ、今に始まったことではないのだけれど)

 

だが、じゃぁとばかりに、仕事の効率を上げて、自分の担当分を早く終わったとしよう。例えば3時間分の仕事を2時間であげたと考えてほしい。この際の企業側の論理はどうなるのか?

まず間違いなく、実質として、2時間分の給料しか払わない。というところがほとんどではないだろうか?そう。入口は「高効率化」とか言っておきながら、その実、中身を見ずに「時間でしか労働力を見ていません」という事の典型ではないか!

まさに言動不一致!。効率など見ていない!という事ではないだろうか?

 

こんな状況下では、工夫した人、努力した人をバカにしているのもいいところ。もし、半日で終えても早く帰れないのなら、拘束されている時間分をフルに使って作業するほうが、自分的には楽だったりする場合もあるだろう。

 

違う側面から見れば、その「成果」の価値を上司がきちんと見極められない、見極めようとしていないからこそ、結果として「時間に対しての給与」を出さざるを得ない事実がある。もうこれは連綿と何十年も日本にしみついてきた「給与算定の方法」であり、当然ながらいままでそれ以外の方法でやってきた上司も見たことがない人がほとんど。であるからこそ、価値などをどうやって見積もればいいのか、自分が価値を見誤ったら??と思うと、いきなりそれに切り替えられるわけがない。

 

過去何年にもわたり、時短だ何だといろいろと日本の働き方に関して提言が出て来てはいたけれど、けっきょくのところこの「価値の算定」というところにつながラざるを得ない。そしてその価値はというと、今すぐ価値になるものもあれば、時代を経て価値に変化するものもある。そんな不確実なことを「今月の給料に正確に反映させること」こそ幻想としか言いようがない。だから、価値で測るためには、事前に測る物差しを決めざるを得ず。そしてその物差しが「決められない」のが日本の現状だろう。

 

最近悲観的な未来しか見えてこないのだが…。