幸せな貧乏と、不幸な金持ち

ふたつの違う事象をごっちゃにして、混同して語られる場合がある。仕事などでよく見るのが、緊急性と重要性とか。この二つ、根本的に違うことは少し考えればわかるのだが、どうしても時間がなかったり、焦っていたりすると、混同しがちだ。

 

これと似たようなことが、今回のタイトル、「お金のあるなし」と「幸福度合い」においてないだろうか?お金がある/なしは、金持ち/貧乏と表し、幸福度合いに関しては、幸福/不幸と表す、ただこれだけのことだ。

 

とはいえ、軸が違うのだからこの二つは組み合わせることが可能で、
1) 金持ちだが不幸、
2) 金持ちだが幸福、
3) 貧乏で不幸、
4) 貧乏だが幸福、
の4つの組み合わせが考えられる。

 

とはいえ、実際に生活するにあたり、お金のありなしが生活を左右する要因になることは多くあるため、上記で言えば2)もしくは3)というのはよくある、相関関係が高い事象だろう。数学的に見れば直行性が低いとでも言えばいいのかも。

 

では1)と4)はないのか?というと、実はそんなことはない。1)のように、莫大なお金を持っている人が、周りから見て幸福そうに見えないこともままあること。経済的に成功したことで不幸になるような事例は、枚挙にいとまがない。

と同じことが、たぶん4)にもあるはずだ。すべてがこのケースではないけれど、最近取り上げられるのは、モノを極力持たないような生活を目指している人などが、もしかするとこれに近いかもしれない。

要するに価値観の違い。経済に関する価値観と幸不幸の概念が、多くの人は相関関係数が高いけれど、必ずしもそうでもないひとが増えつつある、というのが現代だろう。

 

それも含め、要するに昨今の価値観は多種多様。さらに、昔ではそういう人たちの細かな分類、存在自体が昔はわかりにくかったけれど、昨今はこれだけ個人からの発信が可能になったことで、細かく違いが見えるようになったという事。

であるがため、逆に言えば、「自分の価値」を探していく必要があるという事、他人の価値観に無理して乗るのは結構辛いことも。

さて、あなたの価値観は?幸福とは?

 

弱者という賢者

様々な意味において、勝者が存在し、また弱者も生まれる。だが、弱者だからと言って死に絶え、消え行くとは限らない。ある分野においては勝者であっても、別の分野において弱者だという事もあり得るからだ。そう考えれば、消えゆく弱者は、そこに固執しすぎ、自分が勝てないところに居続けることこそが問題の一つなのだろう。と考えれば、ある分野の弱者とて、生き続けるためには「賢くあらねば」ならない。そう、負けないところに移行する、移行できる賢者にならなければ、早晩消えてしまうことになるだろう。

 

と言うことは、長らく生き続けている「弱者」は、そうして生き続けられるための何かで対処したから生きながらえてきたはず。ある分野での弱者ではあったものの、「賢者」たる知識、知恵を生かし、今でも生き続けられた、そこは学ぶべきポイントではなかろうか。

 

なんでも弱者といえば馬鹿にしたり、蔑む人がいる。だが本来、「すべての点において」そうある人はだれもいない。それは弱者ならずとも強者もまた同じであり、たまたま、たとえば力の点で、知識の点で、記憶力の点で、運動性能の点で、定在的な点で、アイデアで…その時にその他より優れていたに他ならない。もしかすると時期がずれていれば、場所が違っていれば、分野が違えば、対戦相手が違えば、何かの違いで弱者に陥っていたかもしれなかったが、今回は運がよかった。たぶんそういう事だ。

 

なので「今回は弱者」であったとしても、その経験を生かして賢者となり、次回に成果を出せばいい。たぶんもっともいけないことの一つは、今回弱者に陥ったことにより、それを悲観しすぎたり、振り返らずに閉じこもったりすることではないだろうか。

平等だ…などと決して言うつもりはない。だが、必ずチャンスは訪れる。それをつかめるように、賢者たれ。

 

 

 

「楽しい」を持とう

あなたの最近の「楽しい」はなんですか。そもそも最近、楽しかった事有りますか?

仕事に勉強に、最近はついつい追い回されている日常が続いている人を多く見かけるのだけれど。さて、本質に立ち返って、「何のために」勉強しているのか?「何のために」仕事をしているのか?

 

本当にやりたい事、楽しい事を後回しにして、結局最後までできなかった、やれなかった人生と。やりたいことはやり切ったけれど、そのあと苦労に次ぐ苦労を重ねた人生と。こればかりは人様の「幸せの定義」にもかかわる事なので、はい「これ」が正解ですとか、「これ」は間違いですなんて言うつもりもないけれど。でも、頑張って頑張って、結局「やりたかったことができなかった」という人生って何なんだろうか?と。

 

勉強のために生きている?仕事のために生きている?もちろん、人によっては「勉強が楽しい」とか「仕事が楽しい」人は、いくらでもいる。そう、その人たちは「楽しい」事のために自分が活動している。でもそうでない人は?

楽しくないことで日銭を稼ぎ、それをもとに休日は「楽しい時間」を持っていますか?いや、積極的に「楽しい」じゃなくても構わない。でもホッとできる時間、リラックスできる時間を手にしていますか?これを失ったら、何のために生きているんだろう?ということになりません?一時期、私も、職場から帰ってきたら、あとは飯食って風呂入って寝るだけ。起きたらふたたび職場へ直行…と、何のために生きているのかよくわからない生活をしていた日々も。

だから、まず、自分の楽しいを知りましょうよ。わかりやすいところで言えば、「あのテレビ番組を見る時間」でも構わない。好きな番組の一つや二つ、ありませんか?

 

たぶん最強なのは、「勉強すること、知識を学ぶこと自体が楽しい」人。この人のは本当にかなわない。楽しいこと自体がその人を知識的にも成長させるので、否応なく成績が上がり、上がることでもっと効率よく、もっと頭がよくなるやり方を学んで…と、まさにどんどんと成功の方向へと駆け上がっていく人。

でもそんな人ばかりじゃないし、そんなに成功もできないし。だから、自分の「楽しい」を持ちましょうよ。ほら、本をもって、最近ならタブレットをもって、近くのカフェで1時間、コーヒーを飲みながらのんびり過ごす…のが楽しみ、でもいいんですよね。

 

たぶん、今月か来月には何らかの夏休みがある人が大半。みんな、何して楽しみますか?

 

 

 

OSアップデート

すでに、お仕事をする上においてPCを操作しない日はないという事務方の方が多い日本社会。日本においてPCが爆発的に広がるきっかけとなったのは1995年のWindows95発表の時なのは間違いないだろう。もうこれも20年以上前の話なのだから時のたつのは早いもの。

 

じゃあ当時のそのPCをいつまでも使っているのか?というと当然そんなことはなく、ハードの切り替えとともにOSも、Windowsは95から98、2000、XP、Vista、7、8、10と、メジャーバージョンでさえ、これだけ更新してきている。

他方、いまだに根強いファンがいるMacだけれど、Macも同じく、8、9、10、10.1、10.2…ときて、今年2018年の秋にリリースされるのは10.14になる。

 

コンピュータがこれほど浸透する以前はといえば、「なんでパソコンの「OS」をそんなにして更新しなければならんのだ。最悪、昔のソフトが動かなくなるのに…」などと文句を言っていた人が(今でも)いるのだが、やはりそこはそれ、現状のテクノロジーの進歩、サービスのバージョンアップ、より便利な方向に向けて、より利便性が上がるために、確実にOSのバージョンを上げ、利便性、使い勝手を提供し続ける。

逆にこの更新をやめた瞬間に、ライバルにいきなり差をつけられ、周りの変化、進化から取り残され、あっという間に古びてすたれていく運命が待ち構えている。

 

上記は「PC」として捉えたわけだけれど、実は我々の「社会」も同じなのではないだろうか?PCに対して社会ととらえるなら、PCのOSに相当する社会のOSとは何か?たぶん法律やルールではないだろうか?PCの中では、OSが様々な裏の面倒を見ていることによって、それぞれのアプリが整然と動いている。社会においては、法律やルールがきちんと制定されることによって、われわれの生活がつつがなく回っている。

しかし時間が経てば、PCにおいては新たな技術、テクノロジーが出てきて、それを個々のアプリが対応していてはうまく回らなくなる。だからOSがそうした新規テクノロジーの面倒を見る新しいバージョンを提供する。では社会は?社会においても新たなテクノロジーが出てきたら、社会の環境、ビジネス自体が変わり始めれば、それに乗じて新たなビジネスが生まれたり、回りだしたりするはずだ。がもちろん、既存の法律ではうまく回せないことも出てくる。これを再整備し、新たなOSにバージョンアップさせなければ、当然ながらそのビジネスは、より適合性の高いほかのOS(他国の法律)を目指して移動していくだろう。

 

すでに「モノづくりの国、日本」は、ある意味形骸化していないか?本当に「モノ」を作るに適したOSがルールが、ビジネスを、社会を支えてくれているのだろうか?場合によっては邪魔をしていることにもなっていないか?

Microsoftであっても、Appleであっても、OSのバージョンアップには、想像以上の工数をかけて設計し、テストし、その上で社会に展開している。不具合が見つかれば、即時アップデートも行うほどの体制を維持し続ける。今の日本でそれだけ「社会のOS」に手をかけられているのかどうなのか?もしそうでないとすれば、その影響がどう出てくるのか?ただでさえ人口減少にさいなまれている日本で、ルールの上でも負けるようでは、お先真っ暗に。

 

 

焼畑農業

たしか小学校あたりの社会科で学んだのが「焼畑農業」。ある一面を焼き払うことにより、焼かれて隅になったことで雑草などが死滅し、またそれによって燃やされた草花が肥料の代わりとなり、そうして焼かれた広場が耕作可能な農地と変わるという事。

ではあるけれど、逆に言えばそれは「土を育てている」わけではなく、上に出ていたところを焼き切って使っているため、それほど繰り返し使える土地にはならず。なので次の耕作時期には、次の燃やせる場所を探して移動していくことに。こうして焼かれた台地が広がり続け、やがて焼き切る土地がなくなると、そこで終わってしまうという事に。発展途上国あたりで多い手法。

 

それに対して日本の多くの土地は、耕し、土を作って、何年も耕作可能になるよい土壌作りから始まっているところが多数。そんな土地で作られた農作物は、確かにおいしいし、素晴らしい成果が実るのは言わずもがな。なので農業で生業を立てている人は、「土作りですよ」という人も。

 

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ところで、昨今の企業、中小もあるけれど特に大企業。本当に人を育てるつもりがあるのだろうか?とここ何年も思っているのだけれどどうなのだろうか?

正社員をどんどんと切り捨て、派遣、有期雇用に切り替えて、固定費を削減し、人を育てないことでコストダウンを図っていく。であるがゆえに昔に比べて中途採用枠が非常に大きくなってきているのが見て取れる。
だが、「中途採用」の意味するところは、「即戦力」であり、「うちで育てなかったけれど、外で育った才能を、我が社のために使って結果を出してね」という、おいしいとこ取りに他ならない。いわば、市井に広がる価値を掬い取り、自社のために使って、使えなくなったら切り捨てる。まさに、人材の焼畑農業状況になっていませんか?

 

もうたぶん、ほとんどの人々が、日本における終身雇用など信じていない。ということはいつでも捨てられる、外に出られることをイメージして働かざるを得なければならない状況。これにより、その企業における忠誠心は下がり、結果的に「本当に自社にずっと居残ってほしい人」がいた場合には、それなりの見返り(たいていはかなり高額な部類の給与になるだろう)が高止まる方向に動くことになるはずで。

 

特にこれからは、どう考えても人が足りなくなる。となれば、才能ある人物は引っ張りだこだ。他方で、人工知能や自動化はどんどんと進み、単純作業部分は人手が必要なくなるだろう。人を育てることを企業は諦め、それを個人に委ねる。個人でいかに早くこれに気づき切り替えられるのか?いや、もう今の若者世代は開き直ってそれが当たり前か。

30年前のバブルの時代に今のこの状況が想像できていなかったと同様に、今の時点で今から30年後の2048年は想像を絶した状況になっているだろう。焼畑で一面焦土になっていなければよいのだが。