OSアップデート

すでに、お仕事をする上においてPCを操作しない日はないという事務方の方が多い日本社会。日本においてPCが爆発的に広がるきっかけとなったのは1995年のWindows95発表の時なのは間違いないだろう。もうこれも20年以上前の話なのだから時のたつのは早いもの。

 

じゃあ当時のそのPCをいつまでも使っているのか?というと当然そんなことはなく、ハードの切り替えとともにOSも、Windowsは95から98、2000、XP、Vista、7、8、10と、メジャーバージョンでさえ、これだけ更新してきている。

他方、いまだに根強いファンがいるMacだけれど、Macも同じく、8、9、10、10.1、10.2…ときて、今年2018年の秋にリリースされるのは10.14になる。

 

コンピュータがこれほど浸透する以前はといえば、「なんでパソコンの「OS」をそんなにして更新しなければならんのだ。最悪、昔のソフトが動かなくなるのに…」などと文句を言っていた人が(今でも)いるのだが、やはりそこはそれ、現状のテクノロジーの進歩、サービスのバージョンアップ、より便利な方向に向けて、より利便性が上がるために、確実にOSのバージョンを上げ、利便性、使い勝手を提供し続ける。

逆にこの更新をやめた瞬間に、ライバルにいきなり差をつけられ、周りの変化、進化から取り残され、あっという間に古びてすたれていく運命が待ち構えている。

 

上記は「PC」として捉えたわけだけれど、実は我々の「社会」も同じなのではないだろうか?PCに対して社会ととらえるなら、PCのOSに相当する社会のOSとは何か?たぶん法律やルールではないだろうか?PCの中では、OSが様々な裏の面倒を見ていることによって、それぞれのアプリが整然と動いている。社会においては、法律やルールがきちんと制定されることによって、われわれの生活がつつがなく回っている。

しかし時間が経てば、PCにおいては新たな技術、テクノロジーが出てきて、それを個々のアプリが対応していてはうまく回らなくなる。だからOSがそうした新規テクノロジーの面倒を見る新しいバージョンを提供する。では社会は?社会においても新たなテクノロジーが出てきたら、社会の環境、ビジネス自体が変わり始めれば、それに乗じて新たなビジネスが生まれたり、回りだしたりするはずだ。がもちろん、既存の法律ではうまく回せないことも出てくる。これを再整備し、新たなOSにバージョンアップさせなければ、当然ながらそのビジネスは、より適合性の高いほかのOS(他国の法律)を目指して移動していくだろう。

 

すでに「モノづくりの国、日本」は、ある意味形骸化していないか?本当に「モノ」を作るに適したOSがルールが、ビジネスを、社会を支えてくれているのだろうか?場合によっては邪魔をしていることにもなっていないか?

Microsoftであっても、Appleであっても、OSのバージョンアップには、想像以上の工数をかけて設計し、テストし、その上で社会に展開している。不具合が見つかれば、即時アップデートも行うほどの体制を維持し続ける。今の日本でそれだけ「社会のOS」に手をかけられているのかどうなのか?もしそうでないとすれば、その影響がどう出てくるのか?ただでさえ人口減少にさいなまれている日本で、ルールの上でも負けるようでは、お先真っ暗に。