弱者という賢者

様々な意味において、勝者が存在し、また弱者も生まれる。だが、弱者だからと言って死に絶え、消え行くとは限らない。ある分野においては勝者であっても、別の分野において弱者だという事もあり得るからだ。そう考えれば、消えゆく弱者は、そこに固執しすぎ、自分が勝てないところに居続けることこそが問題の一つなのだろう。と考えれば、ある分野の弱者とて、生き続けるためには「賢くあらねば」ならない。そう、負けないところに移行する、移行できる賢者にならなければ、早晩消えてしまうことになるだろう。

 

と言うことは、長らく生き続けている「弱者」は、そうして生き続けられるための何かで対処したから生きながらえてきたはず。ある分野での弱者ではあったものの、「賢者」たる知識、知恵を生かし、今でも生き続けられた、そこは学ぶべきポイントではなかろうか。

 

なんでも弱者といえば馬鹿にしたり、蔑む人がいる。だが本来、「すべての点において」そうある人はだれもいない。それは弱者ならずとも強者もまた同じであり、たまたま、たとえば力の点で、知識の点で、記憶力の点で、運動性能の点で、定在的な点で、アイデアで…その時にその他より優れていたに他ならない。もしかすると時期がずれていれば、場所が違っていれば、分野が違えば、対戦相手が違えば、何かの違いで弱者に陥っていたかもしれなかったが、今回は運がよかった。たぶんそういう事だ。

 

なので「今回は弱者」であったとしても、その経験を生かして賢者となり、次回に成果を出せばいい。たぶんもっともいけないことの一つは、今回弱者に陥ったことにより、それを悲観しすぎたり、振り返らずに閉じこもったりすることではないだろうか。

平等だ…などと決して言うつもりはない。だが、必ずチャンスは訪れる。それをつかめるように、賢者たれ。