苦言

「おつかれさま」
ピーターバラカン氏が言っていたのだが、日本はとにかく、仕事が終われば「お疲れ様」一辺倒だそうだ。
 「今日はとてもよかった、ほんと、良かったよ」
とか
 「今日はどうしたの?いつもの感じが出てなかった。調子悪いんじゃないの?」
とか
ほめるにせよ、けなすにせよ、そうした批評がほとんど出てこない。調子が良くても悪くても、仕事が終わったら「お疲れ様」。ある意味いつもニュートラル、個で特段はしゃいだり落ち込んだり怒ったりしない、思っていることを表さないという民族なのか?

そういえば、阿川佐和子氏も言っていた。小学校で講演を頼まれ、そこでの講演を終わりさぁ、帰ろうとその学校の校門近くを歩いていた時に、たぶんその講演を見たであろう小学生から声をかけられたそうだ「お疲れ様でーす」。
その子は彼女と一緒に仕事をしたわけでもなく、多分挨拶として、それまでなら「さようなら」というところを「お疲れ様」と言い換えたにすぎないだろうけれど、この違和感はなんなのだろう。

 

「お疲れ様」。相手の疲労度など関係なく、多分今の仕事で疲れたでしょという考えもなく、瞬間の記号、反射のように時を埋めようとする言葉。“あなたのことしっかり見てませんけど”知ってます、という程度にしか意味を持たない、本当に心から「お疲れで大変だったでしょう。ご自愛くださいね」という意味を含まないであろう言葉。

ここからは私の想像にすぎないのだが、そういう民族であるからこそ、昨今の大震災のような尋常でない状況に陥ったときであっても、不満ひとつ言わずに整然と秩序正しく並んで配給を待つ、ようなところにつながっているかもしれないんじゃないかとも思っている。感情を殺すことで、無用な争いがおこることを未然に防ぐ。これをすばらしいことととらえる向きもある。

がしかし、それはそういう極限的な場面でのこと。仕事で、学校で、日常で、もう少し批判しても、感情を表してもいいんじゃないのかなぁ?良い方向の感情表現、もっと褒めよう、なんてのは、時々いうじゃないか。そして、最近は特に他人を叱ったり批判されたりしない時代。そして叱られないから“叱られ慣れて/批判され慣れていない”。

その苦言はその人を成長させるためであって、その人をけなしたいとか、打ちのめしたいということからではなく。良いところをもっと伸ばすため、悪いところを早期に是正するため。もちろん、心から憎いと思って批判している人もいるだろうけれど、それは受け取る方がきちんと判断する能力を磨く必要がある。そのためにも、叱られ慣れる、批判され慣れている必要があるんじゃないかな。

 

「愛することの反対は、無視すること」という解釈の仕方がある。
その人のことを本当に考えているなら、その人のことをより深く思っているなら、その人のためには、たとえ批判であったとしても、苦言であっても、なにか助言してあげることこそが有効である場合は常に存在するだろう。

いつもニュートラルで何もなかったように、「お疲れ様」だけでは、いいようにとらえれば無駄な争いを回避していることだが、悪いようにとらえれば、それは何も見ていない、何も感じていない。ただ淡々と「時間の隙間」を埋めているにすぎない。人と人とのインタラクションですらない。

 

もちろん、すぐに批判するにしても、されるにしても、ある言葉を“批判した/された”と受け止めるのではなく「その人のことを考えたい」「あぁ、私のことを思って助言してくれている」と理解できるだけのリテラシーを持っていなければはじまらない。

それを持っていないから言わないのか、言わないからそれを持っていないのか。
そんなのはニワトリ卵の問題は、ニワトリか、卵か、どちらかから打ち破るしかないんだけど。

# 見せかけの隙間を埋める挨拶とよばれるもの、
# いや、挨拶にもなっていない言葉はもっと多いかもしれないな。