すぎたるは…

美しすぎる市議会議員なんてのが記憶に残っているけれど、美しすぎる○○といった見出しのついた週刊誌記事がにぎわした事があった。

別にそれらすべてをチェックしたわけではないけれど、確かにきれいな方なんだろうし、その職業以外でも、もしかすると「美貌」を武器にした職業として成り立つだけの技量をお持ちの方なのかもしれない。

 

 

だが、反対に考えてみる。美しすぎるといった形容詞を、わざわざつけない職業ってのもあるだろう。たとえば、美しすぎる女優さんとか、美しすぎるキャビンアテンダント…なんていう言い方をする人はまずいないんじゃないかな。そしてそれはなぜか?

「○○すぎる」という言葉には、「本来それを職としている人々に持つ、美醜の印象として、そんなにきれいな人は多くないだろう」という、暗黙の前提事項が内包されている(キャビンアテンダント、昔でいうところのスチュワーデスにおいては、逆のバイアスがかかっている)んだろうことが、想像に難くない。

お綺麗ですねと褒めているようでいて、実はその根底に根ざしているものは、職業における必要要件を勝手に規定している自分がないか。

議員であったとしても、その美貌要望を武器に、さまざまな場面に切り込んでいかれる方もいるだろう。まさに美しすぎることこそが、議員としての才能を引き立てる。
反対に、とびぬけて美しくないことで他の利点を伸ばすことに努め、その結果、素晴らしく優秀な女優さんであったり、キャビンアテンダントになれることだってある。美しくて技量のある女優や、美しくて技量のあるキャビンアテンダントなら文句はないが、美しい「だけ」で技量のない女優や、美しい「だけ」で仕事のできないキャビンアテンダントに、仕事を頼めるだろうか?

 

 

“それ”を言葉にした瞬間に、実はその反対側の意識があらわになっていたり。“それ”は偏見であったり、思い込みであったり、差別意識であったり。しかし純粋に尊敬であったり、憧れであったり、もくひょうであったり。
たんなる一言であっても、何と組み合わせるか?で、意識させる事、もの、がかわる。

何と何と組み合わせるかで。