もしもに備えて

あるゲームにおいて、物事を決めるルールが「全体の2/3の賛成をもって」と決まっていることがあるとする。だが、それでは今までも物事を変更するのが大変だ。なので「全体の1/2以上の賛成をもって」に変更したいという意見が出てくる。このルール改正に賛成か、反対か?と問われる?

 

『「「“ルール(*1)”」を変えるための“ルール(*2)”」を変更することに、賛成するか、反対するか?』ということだろう。

 

そもそも、「ルール(*2)を変えたい」という前提として、そのルール(*2)を適用して変えたいルール(*1)が存在するからこそこのような意見が出てくる。変えたいルール(*1)がないのにルール(*2)を変える意味はない。そんなチラチラ見え隠れするその「本来変更したいルール(*1)」の議論をしっかり、ガッツリ行うことが先立たなければならないはずだ。だが、ついついすぐ手を付ける目の前のルール(*2)ばかりに注意をそらされ、ルール(*1)が案外おろそかにされていたりしないか。

 

その本来到達すべきルール(*1)についての議論をしっかり行った上で、意見が煮詰まり、やはり全体の流れとして「今のものであるルール(*1)から変更したい」という機運が高まるのであるならば、そこではじめて「変更するためのルール(*2)」に視線が向けられるのが手順というもの。

だがそもそも、もし本当にルール(*1)変更の機運が高まっているのであれば、ルール(*2)自体に変更を加えずとも、その機運が高まった方向への変更が可能になっているはずでもある。なぜなら、しっかりと本当に変えたい方向、進みたい方向の議論ができているのだから。

 

本来政治とは、そうした多くの民を、“そちらに促す努力”を惜しまず行うところに第一義としての意味があると思っていたのだけれど。それをルール(*1)をうやむやにしてルール(*2)変更で流れを作りたい、といった場合、人々がその先のルール(*1)の周辺に胡散臭さを感じるのは、当たり前の反応ではないだろうか。

 

 

…という理解すら整理して伝えきれていないマスコミにすら、もやもやとした気持ち悪さを感じるのだけれど。