めざすゴール

小学校入学前まで、なにかに「正解」があると思って行動していたことはなかったのではないだろうか。自分ができたと思えば“できた”だし、気に入らなければいつまででもやり続けられる。本当に自分が満足するまで行い続けること/やりつづけることができた時間。

 

だが、小学校に入ってからは、そのほとんどの時間をつかって「…が正解です」「…と言うのです」を学ぶ。テストで空欄を埋めるには一つの答えがあるし、計算の答えには一つの答えが存在する。

これは小学校から始まり、中学、高校へとずっとこの手法で話が進む。「答えを探す旅、答えを覚える旅」の12年間。

もちろん、そうして覚える基礎的知識には大きな意味がある事は分かる。その後の生活、人としての社会生活を営むに際して、重要な基盤となる知恵を導き出すための基礎の基礎になる。

正解がない科目も確かにある。音楽や美術などは顕著な例であり、創作されたものに合格ラインがあるものではないし、よほどのことがない限り正しい評価はできないだろう。反面、その科目で出す成果としての「作品」を評価されるという価値観は、「次のステップ」としての受験への影響度が低いこともあり、生徒側も教師側も、軽々しく扱うことが多い。さらにそれをテストなどで評価するといった場合には、やはり過去の記録(たとえば音楽家の名前や顔、美術史等々)といった記憶ものでの評価、もしくはその授業に対する態度としての評価となり、“創作に対する評価”ではないこともある。

 

と考えると今更だけれど、小学校から高校卒業まで、ほぼ「正解を覚えなさい」もしくは「正解を探しなさい」ということをもってして「勉強」もっとひらたくは「学ぶこと」とされている。この刷り込み期間は長い。

 

 

ところが、大学に入った瞬間に、それは一変しはじめる。教養科目として、高校の延長のような授業はあるものの、4年間を通して学ぶべきは、「いままで誰も解いてこなかったことを解く、もしくは解けることへ先鞭をつける訓練」の意味合いが大きい。だが、そういう意識を持って大学で“学んでいるもの”はどのくらいいるのだろうか?

 

教えたいものが変われば当然、評価基準は変わる。「解」があるのは、それを見つけた先人が存在するからこそそれが存在する。誰もやっていないことに突っ込んでいくのだから、当然そこには「解」などない。いや、解が求まる保証すらない。

学士で卒業する場合には、それでも何とか解があるかもね…というような形にまとめて終わる、という収束のさせ方もあるけれど、修士、博士にもなると、明らかに新しいものの“匂い”“存在”が感じられなければ認められないことも当然となる。

 

今や募集人員的には、望めば入れるほどの大学の定員数。大学を卒業した人であったとしても、意識の高い低いの差は大きかったりする。

 

 

疑問があれば検索するということが当たり前になった現在。とても便利な時代だと思う。が、人によってその「検索」に対するとらえ方/姿勢が変わる。

単なる「覚えていなければならない事象」であるなら、それは「検索してその事象が出てきた時点」で、思い出すことができる、再度記憶の表層に知識が表れることでゴールだろう。

だが、世の中、ビジネスや新しいことを“作り出していく”だとか、“創造していく”ためには、そうして検索して出てきたものはまだ単なる「要素」にすぎない。検索して出てくるのもは、ある意味「誰かが作り出した解」であり、だれも創り出していないもの、理解されていないものとしての検索結果は、検索では決して出てこない。

ということは、検索して出てきた「要素」として、それをもとに何か新しい考え方やつながり、解釈を考え、そうして何かを想像しなければならない。

 

であるから、「検索の結果」を“ゴール”とする瞬間も確かにあるのだけれど、それをもって“考えるためのスタート要因”としての一要素が手に入ったとする瞬間もあるということ。

それらをすべてどちらかに統一して考え、「検索するな」とか「すべて検索すればいい」と、全部どちらか一方に寄せて考えること自体が間違に、違和感を感じる。

 

クリエイティビティのトレーニングはいつでもできる。「検索」した「結果」を用いて、次の何かを始めるスタート要素のシテの情報として何かを考えるだけで、小さな進歩につながる。

考えることを捨てた瞬間に、それは“あなたである必要”はなくなる。