コンテキスト/コンテンツ

録音をする、写真を撮る、ビデオを撮る。

もう身近な題材を瞬時にコンテンツにする手段は、多くのみんなの手の中にある。

 

写真はあふれている。にもかかわらず、身近な人と共有しようとすると結構設定で苦しんだり。誰とでも共有してしまえ、となった瞬間に、一気に敷居が下がったり。

 

そんなに大量に写真を撮ってどうするの?とか、そんなブレブレ、失敗写真をどうすんだよ?という人も多い。

 

プロが撮った写真は、それこそ、構図、ライティング、ボケなどが完璧で、それゆえに作品として成立し、その1枚が価値ある1枚になる。ま、それもかなりたくさん撮った上での1枚だったりする写真家もいるけれど。

 もちろん、素人もそんな写真が撮りたいと思っている人は多いだろうし、それを練習して極めていこうという人もいる。

 

でも、今の写真、それもみんなが撮っている写真は、美しい写真を撮る、景色を切り取りたい、残したいとおもっているのと同時に、実は“その時、その時間の思い出”を残したいと思っているんじゃないだろうか?

いわば、コンテンツとしての写真ではなく、コンテキストとしての写真。

 

あぁ、この時はこんなお店に一緒に、○○さんと、△△さんと一緒にいたとか、この後別のお店で××な事件があったとか。大したことのない料理の写真、芸術性なんか別にない集合写真から、その時の思い出、話の内容、料理の味、店の雰囲気、楽しかったおしゃべり、旧交を温めて盛り上がった内容などなど、その1枚、数枚から思い出すこと自体が楽しかった。

 

芸術性は芸術性で、コンテンツとして楽しもう。

でも別にそうではなく、その場であったことをコンテキストとして引き出せる記録、記憶を引き出すフックとしての写真。

 

そういう意識を明確に描いた瞬間から、機器に求められる性能が変わる。

美しさや、暗いところで撮れるのも確かにうれしい。ぶれに強いのもうれしいけれど、暗くても、色が少々くるっていても、ぶれていても、絶対に撮りたかった一瞬が写っている、その雰囲気が撮れているカメラのほうがうれしい人、きっとかなりの数、いると思っている。