奪われている時間は

売り上げが下がって、新しいビジネスを考えないといけなくなる昨今。今まで売っていたものは、そのままでは時間がたつにつれ安くしないといけないので、薄利多売に。より多く作って行かないといけないし、次回はまた新しい価値を付与していかないといけなくなる。それを作るためには、今以上に考え、今以上に作り、今以上に…と働く時間が長くなる。

その割に残業はより厳しく規制され、仕事“場”からは追い出される。…とはいえ本当に「仕事から切り離されている」かどうかは怪しいもんだったりもする。

 

そうしてどんどん忙しくなり、効率を追求される。プレッシャーも尋常じゃない。家へ帰ったらヘトヘトか、もしくは残務をしょりしたりする毎日。持っている力をすべて会社のために使わんがためにと、搾り取られるような日々。

 

結局、ギリギリまで個人の時間を使い、会社の運営、利潤追求のために何かしらの時間を使われる。時間という形では奪わなくとも、気力とか体力という形でさえ搾り取る。

 

家へ帰れば帰ったで、家族を無視するわけにもいかない。家族との時間、子供との時間に迫られ、結局、個人の時間は、トイレ、お風呂、通勤時間くらいに限られる。

 

 

そしてそれはたぶん、ゆっくりと、じわじわと、物事を“考える”時間が奪われているような気がしてならない。“考える”ことができなくなって、タイムオーバーになって、目の前の選択肢の、“少しましに見えるかも、と思った方”を選ばざるを得なくなってきている。でもそれは、もう少しだけ考える時間があれば、多分選ばない選択かもしれない。企業側はそれはそれで、“ちょっと見ただけでは、ましに見える表現”に長けてきたりもする。

 

そうしてあらゆるところで、少しずつ少しずつ選択がズレていくことで、きっと何かがズレて行く。そして“鎖”は、最も弱いところから千切れていく。