安心安全

時にこの二つをごっちゃにして語られる方がいらっしゃる。

大辞林を引用してみると

 安心:不安や心配がない事

 安全:危害または損傷、損害を受ける恐れのない事。危険がなく安心なさま。

とある。

 

私の理解は少し違う。というのは、上記では安全に安心が内包されているけれど、そうではない状況もあり得るのではないかと考えるからだ。具体的には、

a)「安心ではないが安全な状況」

b)「安全ではないが安心しきっているという状況」

がありうるのではないかということ。

 

a)は、いわゆる取り越し苦労に近い状況だろう。心配しすぎという言い方をすることもある。安全であるにもかかわらず、あまりに小さな確率の事象が起こらないかと心配する。そこまでしていては気が持たなくなって、やがて疲れてしまったりもする。そもそも、情報が足りないこともあるだろう。

 

b)は、正直なところ、かなりやばい状況かもしれない。本人は安心だと思っているのだけれど、実際は安全である確証はどこにもなく、本人の思い込みのみという状況。これも、情報が足りない、と考えることもできる。

 

なぜこんなa)やb)の状況が生まれるかというと、大人の世界、仕事の世界において、誰かが安全を担保してくれることなどはほとんどないことに端を発するからだ。

その安全の責任を負うのはあなただったりする。その安全を担うのはあなたの組織だったりする。だからあなたは心配であり、後ろ盾のないことで安全を確実に担保するために、小さなことまでも気にし続けなければならなくなってしまう。

 

そして他方、そうしたことに力を注ぐためのパワーである、金と時間をかけられない状況に迫られている。お金はかけられない、人はかけられない、でも担保しろという強烈なプレッシャーがかかる。

単純に無理だとわかれば、無理ですと返答する者もいる。実際にいくら工夫してもどうにもならないという場面もなくはない。

けれど、プレッシャーに押しつぶされ、立場も譲れなくなると、嘘で答えてしまう人もいるだろう。データを改ざんし、事実を捻じ曲げる。

 

時間が、金が、品質が、安心安全を歪めていく。

受け止めきれない心のゆがみが、何かの歪みを引き起こしていく。

時間も金も品質も守らんがために、人の心がそのひずみをため込んでしまうこともある。「安心」のためのはずなのに。