マルチタスクができるのは?

歩きながらものが食べられる。

ラジオを聴きながら運転ができる。

○○をしながら××をするということを普通に行う日々。

 

ただし、そこには組み合わせがある。

考えないとできないような○○と、同じく考えないとできないような××は、ながら作業はできない。当たり前だけれどこれが分かっていないと何でも組み合わせられると思ってしまう。たいていは(2つの場合)どちらかにより優先的な注意を払い、もう片方は適当に間引いていたりする。

 

慣れた行動、意識しない行動と、意識する行動。

 

優れた動作のいくつかは、動作にできる。いわゆる体が覚えている感覚だろう。考えることすら必要とせずに行動できる。必要な時には体が覚えている感覚だけに頼ることなく、考えて慎重に動かせるように指令経路を切り替えたりもできる。臨機応変に考えて操作することとの組み合わせからできていることが少なくない。

自転車:こぐことと、進路を決めたハンドル操作。最初はこのどちらにも注意を払う必要があってどちらも考えないとできないからうまく動かせない。両方を意識する必要があるから、うまく乗れない。でも一方を体が覚えこむことで、動作として一つ高度な組み合わせとしてつかさどれるようになり、運転ができるようになる。

 

 

複数の事象に対して、それらすべてに注意を払いつつ操作する、対処するという

のは難しい。それができるように見える人には、その動作のうちのいくつかが、

考えずとも対処できるレベルに昇華されて染み付いている、体が覚えていると言っ

てもいいかもしれないレベルに。

 

それは運動に限らず「言葉のかけ方」とか「言葉の選び方」といったことかもしれないし、人の態度に対する反応、適切な言葉のかけ方だったりもする。

そうした事象を生む行動は当然一つ一つ違っていたりするけれど、それを抽象化、一般化してとらえることができると、「あぁ、これはあれに当てはめて考えるとこれかな?」と呑み込めることも。一つの分野で極めている人が、その他の分野のエキスパートに何かを習った時に、結構うまく対処できるのは、そうした高い次元、抽象化した形での情報伝達がうまくいった事例であるような気がする。

 

であるがゆえに、本質的にマルチタスクできる状況であるものと、そうでない状況というのは、人により、事象により限界があるはずだ。そうしたことに慣れていること、そうしたやるべきことがすでに理解されている事がある人とない人によって、格段に差が出る。

そして、それを無理にやりこなそうとすることで、結局どちらもグダグダになって、効率が落ちてしまう。

 

まずどちらか、どれかのエキスパート的呑み込みがあってこそのマルチタスク。まともに歩くことができない赤ん坊が、スマホを適切に操作しながらこけずに歩こう、なんてできないのは当たり前じゃないか。