僕は違う、と言えること

他の国に比べて、同調圧力が高いらしい国。

違う意見が言えない事、言えない世界がどのくらい恐ろしいか、は、想像しようとしてみたところで想像しきれないかもしれない。

 
同調圧力は、みんなして同じ方向に流れるための、強力な道具。だから多数を先導したい、流れを作りたい者にとっては、強力な武器だ。
もちろん、その流れていく方向が正しければ、ホイホイそれに乗りたいものだ。だってそんなに楽な事はないはずなのだから。でも本当に正しいんだろうか?もしそうでないとするなら?
 
同じ方向に潜む罠、欠陥、考えが及んでいない事…、こんなことが抜けているんじゃないかと言えないことの恐ろしさ。たとえ言ったとしたところで、それに対する正面からの答えを返さずに、のらりくらりとその周辺を説明するだけで、その肝心なところを説明しない事の危うさ。
たいていは、こうしてずっと逃げ続けられることで、根負けしてしまうことが少なくない。時間のみが議論を進める尺度として機能するだけ。そもそも、有効な時間すら経過していないはずなのに。
 
違うことが違うと言える大切さ、自由。もちろん、誰かの意見にあらがう、皆が同じ方向を向かないということほど「面倒」な事はない。が、その面倒さこそが安全弁のはずで。その決まらなさこそが、ブレーキのはずで。
 
ブレーキが壊れた車に乗りたい人はいない。
ブレーキが故障しているシステムを信頼する人もいない。