受け止める力
最近は当たり前のようにカタカナ語、もしくはアルファベット3文字、4文字語が蔓延する。とくにテクノロジー系の単語は、何の躊躇もなく利用する。
インターネット、スマートホン、LTE、パフォーマンス…。
これらが組み合わさった複合語を、さらに短く省略する。
昔?は、その意味を捉える努力があったんじゃないだろうか。
テニス→庭球、ベースボール→野球、バスケットボール→籠球、ゴルフ→芝球…。
状況、状態をあてはめるためには、どのような意味を持たせるか、どのように想像させるか、それらを考え、それらしい意味、文字をあてることで、あぁなるほどねと今でも想像に難くない文字をあてはめる。
たぶん今は、そんな「言葉」の数が増えすぎているんだろう。あまりに新しい言葉がどんどんと生まれ、さらに流布される経路も増えて、あっという間に広がってしまうのを制御することができないからだろう。
さらにそういう言葉を「音」を介して取り込む「カタカナ」という偉大な発明が、「音のまま日本語として同化させる」という大きな威力をいかんなく発揮する。
でも、「音」が浸透することと、「意味」が浸透することの違いはかなり大きい。昔は、ある意図した「意味」の形で浸透させられていたものが、今やなんとなく形成される共通意思の最大和として意味が形成される。それが正しいかどうかではなく、分かりやすいかどうかではなく、皆が思い込んだ意味が、その言葉の意味に。
そう受け止めてよい時もあるだろうけれど、一度歪んでしまったそれは、まずゆがみを是正できずに、悲しい方向へと走り出す。