正しく批判が出来るために

会社で上司に理不尽な事を言われても、なかなか言い返せないでいる。

同僚に言われれば、そこそこに言い返せる。

この違いは何か?

 

それは、「言い返したこと」によるのちの影響、安全性ではないだろうか、と思うのだがどうだろう?

対同僚に対しては、もしかすると仲違いする事にはなるかもしれないが、自分のポジション等々、それこそ給与に関する影響などはまずないだろう。

ところが対上司に対してであれば、たとえ自分の言い分が99%正しいものであったとしても、ここでケチがついて、どこかで不遇な対処を背負いこみかねない可能性や不安がよぎるなら、たいていの人は、口から出そうな言葉をぐっと飲みこんで、ひたすら頭を低くして、嵐が通り過ぎるのを待つのではないだろうか?

 

会社によってはこういうことを言う事もある。「正しく意見を戦わせよう」。もちろん、悪いことではないだろう。だがこれができるのは、その意見を戦わせる相手との相対的な位置関係や、その後の対処などにおいて、完全に安全、それ以後の振る舞いにおいて後を引かないという確たる約束があって初めてできる事。なので、かなり信頼関係が結ばれている間柄や組織でもない限り、事実上無理ではないだろうか?ある意味、主客転倒していないか?

そもそも「そういわなければ議論ができないという状況」自体が、信頼関係ができていない事を裏付ける一つの根拠でもあり、だからこそ議論を戦わせるに至らないという矛盾した状況にあるのではないか。

 

 

正しい批判ができること。これがより大きな単位になれば、言論の自由と言い換えることもできそうだ。それが「…って言ったら、もしかするとまずいんじゃない?」と思わせた瞬間に、それは言論の自由の一部を制限していることにつながるものになっているという事。

 

新しいルールが制定された。対テロを見据えてだそうだ。今の政権においては、危ない運用はしない…などと口では言っている。だが口で言ったことがすべて満足できた組織や国家は今までないではないか。そして他でも言われている事だけれど、今は良くても、未来の邪悪な者に武器を与えてしまうことにはならないのか。

危ないかも…と思わせた時点でアウトなのだ。

正しい批判ができる安全性は、だんだんと危うい状況に押し狭められているという事だろう。