求められているのは

特に昨今増えてきた…とは思わないけれど、老人やお年寄りがきっかけとなるトラブルが増えているような気がしている。

 

誰しも、いずれ年を取り、退職したり、仕事を止めたりして老年世代に入るわけだけれど、(たぶん昨今の経済事情も相まって)そうした形で隠居したくとも楽隠居できなかった?老人起因のトラブルがネタになることが多くなっているのかな。

実際に、自分が使っている通勤電車の中を見回してみても、ご年配だろうと思われる人の割合が増えている気がしている。

相対的には、昔の60代よりも今の60代の方が若いようには感じるものの、その年になってまで…と思われる人が働いていることもよく見る。ある意味、貧富の格差が健在化しだしている現状と言うのもあるのかもしれない。

 

もちろん、とは言え多くのご年配の方、お年寄りの方のほとんどは、トラブルも起こさず、社会のルールの中で活動、生活をしている方ばかり。ただ逆に言えばそうしたトラブルで目立つ人、メディアネタにはならないけれど電車の中で目立つ人などと言う人々が存在するのも明らかな事実。

 

ただ、昔は全くいなかったのか?というと、たぶんそんなことはない。昔からそういうたぐいの人はいらっしゃったのだろう。昨今、そのお年寄りという母集団としての数が明らかに増えたことで、結果的にそういう人の絶対数が増えた側面はある気がしている。

 

昨今の国に政策においても、年配の方々への配分に力を入れて考えられている…にもかかわらず、いつの時代においても、「年金が心配だ」とか「年金だけでは生きていけない」といった心配事が後を絶たない状況が続いている。なかでも、そうした計画や、蓄えが本当に少なく、年を取った後でも働き続けなければ生きていけない人々にとっては、老体に鞭を打ち、不満は募り、テクノロジーについていけない状態をして馬鹿にされているかのような感覚をもって不満を爆発させることも想像に難くない。

 

とこう考えると、やはり、いくつになっても学ばなければ生きていけない時代なのだろう。

それは、たとえ少年であろうと、青年であろうと、壮年であろうと、老年であろうと、その年に応じた学び、それはテクノロジーのみならず、社会の仕組みや、金融の仕組み、お金の計画、人生の計画等々、さまざまな事を学び、先手を打って自分の未来を切り開いていく必要があるはずだ。

そうしなかった人々、そう努力しなかった、学べなかった人々が、結果的に不満を募らせていないか?俺は頭が悪いからわかんねーよと開き直っていないか。

 

結局、年を取ろうと取るまいと、アタマの良しあしよりも先に、素直に、学ぶ姿勢を持ち、我儘ではなく謙虚にふるまえることが必要なのではないか?

ただ、もうすでにそうなっているお年寄りに「今から」変わりなさいといっても、ほとんどが無理筋のお願いになるのだろう。だからせめて今から年を取る我々こそが、そうやって学ばなければ、賢い老人にならなければ。それこそ若者と、年寄に二分された、権利対立により、この国は分断しかねないのではないだろうかと心配してみたりする。

無限に発展する前提は、皆が学び、進化し続ける前提があるから。不満をいかにポジティブなエネルギーに昇華できるか、かな。