ゴールの向こうを

オリンピックなどで陸上競技がもてはやされたり、世界陸上などで素晴らしい世界の記録に触れることがある。
たとえば短距離の選手、100m走でいい、これを走る時に、「100m先のゴールに到着する」という目標を立てると、じつはなかなか成果は出しにくい。そうではなく「100mまで思い切り走りきって、それを超えたところからスピードを落とす」と考えて初めて、100m走の記録が出せる。でなければ(とくに素人はどうしても)100mのゴールの前から速度を落としがちになる。だからこそ、走りきって、ゴールを超えたところから、徐々にスピードを落とす。100mきっちりのところで止まれる選手には、記録は出ない。走りきれるかどうか、という競技は、また別の話だ。

 

だから、目標値自身を最終ゴールに決めてしまうと、実は目標値はさほど良い形でクリアーできない事がある。目標値の向こう、ゴールの向こうに向かって走っていかねばならない。たぶんそれが「目的」として描かれるべきものであり、そして100mの時点での時間が「目標」だろう。

 

さらに言えば「目標値」と言う言葉はあれど「目的値」はまず聞かない(目的「地」ではない)。目的を達成するための指標が目標値。であるからこそ具体的な数字、誰が見てもわかる結果にする必要がある。

 

この目的、より多数に賛同を得られることの方が事を進めやすい。であるからこそ、県極夜力が必要になったりすることもある。力がないわりに大きな目的を提示しても、「で、お前はどうやって実現するのさ?」と夢物語で終わってしまう。だからこそ動かせる力を通じて、それに向かって実際に動くことができる事、それにより結果である目標値を実現化できることこそが必要になる。

 

このより大きな目的がなくなると、人はモチベーションを切らしてしまう事がある。より大きな目的、今まで成し遂げたことの次の目的が見えなくなると、人はパワーを失いがちだ。それこそが夢であり、次に行き着きたい探求心だったりする。

夢、今はできていないけれどやりたいこと、好奇心、探求心。その年でそんな事を…と言われることを恐れていたりすることもあるかもしれないけれど、こうした考え方自体は何も恥ずべきことではない。

ただ最近は、そういう事を思い描く力や時間さえ、企業のための営利目的活動に使われている事こそが問題なんじゃないかな。それさえ奪われていて、その他の時間は回復するための時間ですべてが使われるとするなら、人は何のために生きているんだろう。

内部留保は誰のためのもの?