人々が成し遂げたいことは

一部の世界はそうでもないのかもしれないが、全世界的に見て、あまり景況感が良い感じはしていない。どこかの地域が良い分だけ、どこかの地域が悪いこともよくある事。

もちろん、天候不順や天変地異の影響もあり、経済はそれぞれに浮き沈みがあるのは当然の事。

 

国内だけを見てみると、もはや使い古された言葉としてのバブル崩壊以後のうん十年という言葉が躍る。1995年以降に社会に出てきたであろう世代のこの少なくとも20年というのは、日本においては、物価が変動しない社会、もしくは、物価が下がる社会として認識されている事だろう。これは別の言葉で言いかえれば、給料が上がらない社会、伸びない社会でもある。

だからこそ、デフレは悪だと喧伝されるわけであり、景気浮揚が叫ばれる。これほど変わらない、安定的な事、という捉え方もあるはずなのに。

 

そのための一つとして、「みんなの懐が寂しいから購買意欲が低い。だからより安く、そしてより良い商品、サービスを作っていかなくては」というのが、どこの現場でもお題目として挙がっているところだろう。

 

そのために、従業員の多くはギュウギュウに仕事を詰め込み、自分の効率をマックスにまで上げようと、上げさせようとする。今まで自分の中にあったちょっとした余剰、余裕はすべて吐き出せ。その分少しでも効率をあげろ!と指示が飛ぶ。

 

しかしそれによって生まれている現状の雰囲気はどういう状況なのか?ほぼすべての人に余裕がないことで、隣で困っている人がいたとしても、自分の事で精一杯で、その人の事を助けられないでいる人、助けたくてももうその気力すら搾り取られている人が多くはないだろうか?以前なら多少の余裕がある人がいて、ちょっと手を差し伸べていたような人がいたはず。でももう仕事でへとへとになってしまっていては、その手が差し伸べられない。これによって、何かあちこちで不協和音、不具合、効率が落ちていないだろうか?

 

そう、結果として「個々の余裕を取り去ってしまった」事によって、「全体としての効率が、大きく低下」しているのではないかという事。要するに、「個々の効率を上げる」事で、「全体効率が下がっていないか」、やりたいのはどっちだ?という事。

 

そもそも、景気を浮揚させたい、皆で助け合える、よりよい構造を作り上げたいという事が掲げられていたのではないか?しかしそのために、「個々の余裕をほぼすべて仕事だけに向ける」ことで上がった生産性と、「余裕が奪われたことによる社会のギスギス感での効率の悪さ、雰囲気の悪さ」は、メリットがデメリットを上回っているのだろうか?

 

デメリットがまったくない行動、活動はあり得ない。なのでデメリットが生まれること自体は仕方がない。だが、生まれたメリットよりもデメリットの方が多ければ、それは「間違った施策」ではないのか。

 

しかしたぶん、こんなBlogやネットの片隅の文書で何かが変わるとは思えない。それを「測る」基準もなく、「目に見える形」にする方法は、たぶん経済学者等々がとっくに議論しているはずだとかまびすしいことおびただしい。

要は、先日の台風のごとく、庶民は、自分の頭の上を過ぎ去るのを、じっと耐えて待つことくらいしか方法はないのだろうか。政治家は、自分の政党が勝つ事に目が行きすぎていないか?

未来は誰に託せばいいのだろうか…。