何が信用されるのか

日本と言う国では、まだまだ現金を使う人が多い気がしている。首都圏県内でのコンビニ支払いであっても、まだ感覚的には半分は現金支払いだろう。

 

だが、海外ではそろそろ変わり始めているらしい。それも、実は日本国民的には発展途上国と思っているような、インフラがそれほど整っていない…と思い込んでいる国ほど、電子マネーが重宝され始めている。

その理由の一つは、ケータイというインフラが整い始めている事。昔ならケーブルを引っ張るという一大事業をなしえなければ通信環境を整えられなかったかもしれないところが、ケータイ電話の発展、発達で、いきなり電子データ、当然電子マネー経済が活況化したという事。

もう一つは、現金の信頼性だ。特に偽札が横行するような社会では、「現金」こそ嫌われる。それよりも改ざんされにくいデジタル技術、電子マネーの方が、少なくとも今は信頼度が高いということ。

 

 

現金が信用されている裏付けは、一つは、国と言った裏付け、それにより偽る/偽札を作ると、公権力/警察権力が対処するということだろう。 

でも、そもそも「国」という裏付けが信用できない地域/時代にもなって来ているとしたら。たとえば「あの国」の通貨が信用できるか?という状態なら。こうなってくると信用度合いの相対論でしかなくなる。あの国と、あの会社と、あの組織と、あの技術と…どちらがどのくらい信用できるか?ということに。

とは言っても「国」がもつ権力はまだまだ大きい。なので、国が発行する通貨、国が裏付けを取る通貨は信用され続けている面はまだまだある。
…という事をもってして、そう「かの国」が電子マネーの技術的覇権を握りたいという野望のために力を注いでいると考えても、不思議ではないだろう。

 

お金とは、結局道具に過ぎない。究極、情報に過ぎない。すべてを一律に何かの共通基準としての「価値」としてあらわすことで、事物の流通が大変便利になる人類が発明した便利な道具。

世界の流れにどこまでついていくのか、それとも、ガラパゴスであり続けるがゆえに、面倒な、であるがゆえの安全をとるのか。そろそろ使う人にも、そして国にも突きつけられている気がしている。