続・効率化

先日の内容に続くけれど、リーダーとしてとりあえず現場の効率化の「尻たたき」をしているだけの部署は、究極的に、ここに到達する可能性がある。それは、「現状を極限まで無駄を省いた形で仕事ができるようにする」職場だ。一切の無駄をなくした職場。

 

だがこれは、裏を返せば「リスク許容度が極端に低い職場」と言い換えられる。誰か一人が休んだりすれば、いきなり回らなくなる。なぜなら、現状メンバーが、最高効率で回っているため、どこかでトラブルが出たとしても、そこに回すべき余力(うまく回っている場合には無駄に見えるそれ)がないからだ。これこそ効率化の究極的状況。目指しているのはここだろうか?

 

さらに効率化すれば、新規に何かを起こすような作業は、当然ながらすぐには価値を生まない作業になるため、無駄作業に繋がりかねない。それはどのようにカウントするのか?そうした事も勘案して「効率化」を語らなければ、当然現場判断が横行し、結果としてだれもが適当に何かをこなす、いい加減な職場になることは推して知るべしだろう。

 

人もマシンもすべてにおいて、効率よく回るためには「遊び」が必要だ。遊びの空間、遊びの時間、余力、余裕時間…。だがこれの効能を明確に測ることができない今は、周りから見れば「遊んでいる」とか、「さぼっている」に見える。いや、それでもそもそものビジネスがきちんと回っているならば、その理由のいったんは、「その余裕があるから」かもしれないのだが。

 

馬鹿なリーダー、バカな経営者は、そうした「必要な余裕」すら削り出す。それは現場の雰囲気を悪化させ、スムーズに回っていたものごとをスムーズに回せなくする力となって現場に働くこともある。さらには新しい付加価値を生み出すための余裕すら削り、自分たちの自滅の道をたどり始める。

 

どこにおいても「必要な余裕」が必要なのだ。万が一のための余裕、成長のための余裕がないところこそ、危ない兆候なのだから。