承認欲求の罠

自身のない者ほど、成功体験がない者ほど、逆に「認めろ」と、暗に求めてくる傾向があるような気がしている。それが承認欲求。世の中、承認欲求に飢えている人がいる。認められない、認めてくれない、自分の真の価値をわかってくれない…と嘆く人がいる。でも、そういう承認欲求が強い人ほど「あなた自身が他の人の価値を認めているのだろうか?」という疑問が湧いている。

 

別に大したことがないやりとりで、「ありがとう」というのは、ある意味、最小の承認欲求を満たしていることに過ぎないはずだ。

「ありがとう」は、「有難し(ありがたし)」、すなわち、そんなことがある、そんな事と出会うこと自体がむつかしい事であるのに、なんと素晴らしい事をしていただけたのか、歓喜にむせぶよ…とでもいう事を略した言葉。「ありがとう」

であるからこそ、ちょと道を開けてくれたら、ありがとう、お釣りをくれた店の人に、ありがとう、インフォメーションで案内してくれた人に、ありがとう…etc. もう、「ありがたいこと」はそこここに蔓延しているはずだ。

 

たまに、「お金を払っているのだ!だから「ありがとう」などと言う必要すらない!」なんて人にも出会わなくはない。けれど、その考え方は「挨拶を買っている」といった考えかたなのか。そもそもそれでは、あなたは「どうやって認められている」のだろうか?

 

小さな子供が、親に言われて(トレーニングとして)なにかを誰かに手渡したり…ということをして、その相手の大人から「はい、ありがとう(ニッコリ)」と返事をいただくことで、子供が照れたような笑いをすることがある。あれこそが承認されたことを受け取った瞬間だろう。とても微笑ましい、そして人間として美しい瞬間ではないだろうか。この人が喜んでくれた、お礼を言ってくれた、私の行為で!という事を受け止めた瞬間。

 

だが、小さなことを積み重ねても小さな承認がもらえない人は、どこかで一発逆転を狙おうとしたりする。今までの分取り返さなきゃ…みたいなことを考える奴らはどこにでもいる。ここで一発…的に、大きく承認欲求を満たそうとする。いや、その考え方自体に、基本的に無理がありませんか。小さなことを積み重ねるからこそ、大きなことにつながる。最初から、大きなものはもらえない。芸能人から国会議員になった人が昔言っていた。「小さなことからコツコツと」

 

結局、そうして「ありがとう」の承認を誰かに提供するのは、結果的に、「情けは人の為ならず」。まわりまわって自分のため。そう「ありがとう」は、やがて自分に巡ってくるもの、やってくるもの。

承認欲求の強い人、誰かに認められようとする前に、「誰かを認めて」見ませんか。「ありがとう」を提供してみませんか?決して高価なものじゃない。たった一言口にするのみ。でもそれが回りまわって自分に返ってくるとしたら?