処理能力の限界の先

マシンは、処理能力の限界を超えてまで仕事をさせようとしても、壊れるか、対応できなくなるだけだ。たとえば、耐荷重10Kgのところに30Kgのものを乗せると壊れるといったものがその典型。パソコンですら熱くなったり、カーソルがまともに動かなくなる。もちろん棚などの場合、そこに20Kgのものを乗せても同じく壊れるのだが、とはいえ普通そうした装置は安全係数がかけられていて、少々のオーバーは許容してくれたりもする。パソコンだって一時的なブーストもある。だが、それにしたところで、許容オーバーの状況が「常態」になるような使い方をすれば、あちこちに無理が生じ、壊れるまでの期間が短くなるのが常だ。

 

たぶん、「人」それも特に日本人はここ最近、そのような状況に達し始めているのではなかろうか?

インターネットが庶民レベルで使えるようになってからおおむね20年。すでに皆さんの手元にはスマホがあり、いつでもどこでも情報に接することができる環境が整いつつある。いや、すでに「情報に取り囲まれすぎている」と表現してもいい。たぶん「テレビ」よりも身近にあるのが「スマホ」であり、それから得られる情報、それを通じてせっつかれる通信に対応することで精いっぱいになりつつある現状がある。

とは言え、人の情報処理能力は無限ではない。もちろん、今から20年、30年前に比べれば、格段に個々人の情報処理能力は上がっていることは間違いないだろう。だがこれとて「無限」に上がり続けるものではない。その限界は来ていないだろうか?

 

ある上場企業の管理職は、1日に約1000通を超えるメールをさばく必要に迫られているという。1件30秒で処理したとして30000秒。単純計算で、8.3時間を「メール処理のみ」で使い果たす計算になる。もちろん、つまらんメールもあるだろうが、管理職クラスであれば、詳細に読み込んで承認が必要な内容もあるだろう。とてもまともに回っているとは想像しがたい状況だ。

これを、「いや、メールじゃなくてチャットツールだ」…と変えるのも一つの手だが、いや、根本的にツールの問題だろうか?情報量の問題ではないだろうか?

そもそも、それぞれを細かく読み替え、理解しながら処理をすること自体、効率の悪い事極まりないわけで、やがてそれも、今から20年30年後には、高度に判断できるAIにとってかわられる可能性だって出てくるだろう。となった時に、「人は何をして生きていくのか」?目の前を流れている情報を処理するのみで良いのか?もっと本質的なことに、ロボットやAIにはさせられないことにシフトすべきではないのか?

ただ悲しむべきことに、最初にそのシフトした人が、世間的に認められる可能性は少ないかもしれない。なぜならば、たぶんそれは、「今は無価値」であるようにしか見えないかもしれないから。いや、「今は無価値」である事こそ、これから「価値」を持つことではないのか?と想像もするのだが。