いつも全貌は見えない
私がいつも見ている景色、それは「私の前」にのみあるもので、他の誰かがこの全く同じ景色を共有することはできない。と同時に、誰かほかの景色も共有することはできない。とするなら、いつも僕らに見えているもの、それはいつも「一部に過ぎない」ということ。
それを、当人の見えている範囲、知っている範囲の情報で、何とか対処する、処理しようとする。
その際、
「知っている/見えている事、これが事の全てだ!」
と思って動くのと、
「いや、それでも見えていない/分かっていない部分に、いったい何があるか分からないぞ」
と意識した上で、決断、行動することには、大きな違いが生まれるだろうことは当然だろう。
だから、いつも、誰にも全貌は見えない。僕らそれぞれが見ている、見えているのは常に一部でしかない。それを意識できたうえで、いかにより大きな視野に広げるか、広げるための努力をするのか?それがたぶんコミュニケーションで、それが共感だったりするのだろう。
いつも全貌は見えない、そして決して、全貌が見えるようにはならない。努力したところで見えるようになるのは、いつもより広い「部分」、より多くの「部分」でしかない。
でもそこであきらめたら終わる。