汎化の基準

親に何かをねだるとき、「みんなが持っているから」とか「みんなが見てるから」「みんながやっているから」とか、「みんなが…」がキーワードになることが多い。

そこで親はその子に質問する、

「誰ちゃんと誰ちゃんなの?」

これでひるむ子もいる。だがこれに真っ向から反抗して「〇〇君と、××ちゃんと…」と言ったところで限界はある。子供の世界で何十人もの世界観は普通はあり得ない。

となったところで大人は言う、

「ほら“みんな”じゃないじゃないの…」

と。

 

しかし子供のみならず、これは大人にとっても同じ問題で、何をもって一般化しているか、みんながやっているか、流行っているか?という事。規模の違いだけで、質問している内容は子供のそれと本質的には変わらない。「みんな」を「流行している母数」としてどうとらえるかだけの話だ。

 

大人の間でも、井戸端会議であれば、「そういえばうちの近所でも…」という話題で全く問題はない。正確なエビデンスが必要無いのが日常の雑談の良いところ。だが、仕事で、ビジネスを進めるか否かの判断をする段階において、いったいどのくらいの市場が広がっているのか、認知されているのかを知るのは重要なエビデンス。数字や論拠はある意味必須。

ではあるけれど、じゃぁ「何をもって一般化している」のか「流行っている」のかなど、何かの基準があるわけじゃない。ある数値以上であれば「絶対に」はやるわけでもなければ、数値は小さい、可能性は低い状況であっても、出してみたことで「爆発的流行を引き寄せる」こともある。

となれば、流行に対する嗅覚と、より多くの人の考え方、一般人の肌感覚をいかにしてとらえるか、感覚として持ち続けられるか。

 

汎化の一律的な基準など存在しないという事。

それをもってしてGoにするも、NoGoにするも、決断次第。決断するという事は、それに対する責任を持つこと。