ノーテンキニッポン

労使協議の上残業は100時間上限で

あまり普段はまあ感情的にはならない自分だけれど、これだけは書いておきたい。

バカじゃないのか?

 いや、これがバカと言えるのは、まだましな職場であって、実際は100時間で制限しなければそれを超える職場が多数になっている事…自体がそもそも「ニッポンおわってるでしょ」って感じだろう。

 

100時間になった、あぁよかった!…と思える職場は即刻逃げたほうがいい。そこで稼げるほどに働ける人は、必ず別のより良い仕事がどこかにあるはずだ。

逆に言えば、そういう仕事がいまだに大手を振ってはびこっている、生き延びている事自体が、そもそも経済原理が正しく働いていないという事。でもこれとて、「大きすぎてつぶせない」などと「あの企業」でも「その企業」でも起きていることを考えれば、推して知るべし。その時点で歪んでいる。

 

これ、ブラック「企業」どころの騒ぎじゃなくて、労働者から搾取するブラック「国家」日本って事じゃないのか?

Japan as No.1…とか、世界の中で一番いい国…とか、過去の幻影に縋り付いていたって、もう生きていけないよ。「今」がどうなっているのかを正しく認識したく「ない」だけじゃないのか?もう年を十分に取っている、劣化していることを分かりたくなくて、必死でお金を突っ込んでケアしている見苦しい金持ち老人状況にさえ見えて来る。金持ちがお金に任せて老化防止の施策を必死でうっているけれど効果なく、寄る年波に抗えなくなっているような老醜国家。

自分が住む国だから悪く言いたくないのだけれど、でも昨今の状況を見ているとさすがに文句も言いたくなる。

 

某国で、あんな大統領が選ばれるのを笑っていられないくらい。

あの国がくしゃみをすると、この国は風邪をひくらしいから。

 

背反要求

仕事現場では、効率をいかに上げるかという事が、口を酸っぱくして現場に叩き込まれる。究極は、違う事をやらず、無駄なことをやらず、全く同じ作業を全く無駄なく同じようにし続けることができれば、それこそが究極の無駄のない作業となりうるだろう。違う作業、他の作業が混じるからこそ、失敗もするし、考えて進めなければならなくもなるし。「考える」時点で反応は遅れている。もう反射的動作でやり続けることで出来上がる状況にすればするほど、効率化は究極の域にまで進めることができるだろう。

ただし、そうしてやり続けることで、究極の効率化はできても、たぶん、それによる付加価値や、刺激は、格段に下がる、と言うのは言うまでもない。

 

効率化へ、という対極に、付加価値はあげていかなければならない、というお題目もある。なぜならば、人は新しい価値を、刺激を求めるから。今までと同じというのは、違いを生まず、刺激レベルがどんどん下がり、刺激がないことが、価値を感じられない事になる。

要するに、ギャップがなければ、刺激にならず、刺激にならなければ価値は生まれない。

ただ、ギャップを生むという事は、それは当然、効率化とは反対の方向。

 

こう考えるだけでわかる通り、会社や仕事の中身において、「効率化」を考えなければならないところと、「差異化」を考えなければならないところが必ずあるという事。どちらも一緒に考えるという事は、ブレーキを踏みながらアクセルを踏んでいるようなもの。部署によって、人によって、仕事によって、どちらがより求められているのかをきちんと認識すること。場合によって、会社自体が場面場面でこれらをうまく使い分けていたりする(本質を突いて質問したりすると嫌われたりもしてさ)。

 

でも車で考えて見てごらんよ、ブレーキを急に踏んだり、アクセルを都度都度踏んだり、それが一番「燃費効率」悪い走り方でしょ?時にはどちらかを順調に踏んであげると効率の良い走りとなる。でも、一方だけだと意味がなくなることも。車も「ブレーキだけの車」や「アクセルだけの車」は成立しないでしょ?

いつブレーキをかけるか、いつアクセルをかけるか、それを現場任せにすると言うのは、それぞれの思いが混ざり合って効率悪そうだよね。それを統制するのがリーダーの、統率者の役割であり責務であり。背反するかに見える要求をどちらを優先するのかを決めるのが、あなたのお仕事なんですよ。

 

 

ルールとは線かリボンか

日本で仕事をする場合、国際化が叫ばれるずっと以前においては、ほぼ日本人だけで仕事が回されていて、いわゆる明文化されたルールを決めずとも、「日本人としてのコモンセンス」などが、事実上のルールとして働き、仕事が回っていた環境があったのではないだろうか?であるがゆえに、海外から入ってきた人はその事実上の(文化に根差した)暗黙のルールが分からず、困惑する事などが多かったのではないかと思う。

 

それに比して欧米では、そんなコモンセンスで仕事が回せる以上に、宗教も、文化も多様であったりした。がゆえに、ルールを明確化して仕事を回すことが重要に、と言うか、そうせざるを得ない、うまく回すための手段だったのかもしれない。

 

これに倣って、昨今様々な事情が多様化した日本でも、職場でのルールを厳格にしようとする。厳格なルール。それをやりだした瞬間に、どこかに「線」が引かれる。

これ、ココからこっちがやる範囲、アッチがやらない範囲…としがちなのだが。そうすると、そもそもの線引きでひと悶着あり、線引き自体が非常にややこしくなったり時間がかかったりする。

 

「線」は数学的には面積はないという抽象的な存在だ。だが、物事のルールの「線」は、「幅がある線」であっていいのではないかと私は思っている。

幅、それは事実上の人のやさしさだったり、思いやりだったり、仕事の「のりしろ」として働く幅。広すぎると「溝」になって、そこに仕事がはまり込むこともあるけれど、その部分は互いに気づかい合うという関係性があれば、仕事は互いに補完しあいながら進めることができるはず。

それこそがこれまでの日本の仕事術としての強みであり、互いに助け合って、補い合ってできて来た日本の経済のはず。

 

ただし、あまり幅を持たせてはいけないルール、持たせるべきでないルールも存在するだろう。それは権力における裁量の幅。

 

厳格に引くルール。幅を持たせるルール。どこにどちらを採用するか。

たいてい、幅を持たせるべきところを一本の線できっちりと分け、厳格に分けなければならないところが、幅広のリボンのような線で区切られている気がしているのだが。

勝つには勝ったが

勝負事にせよ何にせよ、「勝たねばならぬ」という信念を貫く人がいる。

でもたいてい多くの人は、ただ単純に「勝つ」とは考えていないだろう。

 

スポーツで考えてみよう。「勝つ試合」もあるが、実は「良い試合」という軸もある。

すでにお分かりの通り、「勝つけれど良くない試合」もあれば「負けたけれど良い試合」もある。

 

勝つ勝つといわれがちだが、ただ単に勝てばいいというのではなく、実は「良い」という評価軸が同時に満たされることを通常求められている。例えば、視聴者のあるゲームとしての競技は、見ていて楽しい、ワクワクする、感動する、という評価軸。コテンパンに相手がやっつけられるワンサイドゲームでは、強いけど面白くない…ということにもなりかねない。

 

企業で考えれば、儲かる企業が勝った企業。儲からない企業が負けた企業。

だが、ブラックに儲けても通常は社会的に制裁を受け、来年も同じような儲けにつながらない事が少なくない。…という自浄作用が働くからこそ「良い形で儲ける」という事が求められているのが企業活動。

でも最近思うのは、バレなけりゃ、表に出なけりゃ…といった匂いをぷんぷんと感じる昨今。そのくらいギリギリまで搾り上げることで効率化を図っている。裏を返せば、新たな付加価値がそれほど簡単につけにくくなったことで、効率化ばかりで対応せざるを得ず、結果的に搾取方向、ブラック方向にのみ力が過剰に働いている状況に。

そしてその結果として、その勝ち方でも良し/悪しとするようなコンセンサスは、結果としてまだ出来上がっていない気がするのだが?要するに経済に寄与する軸「だけ」。それって、とっても怖いことではないですか。

儲かればいいのか?と言うと全く極論の反対に振って、じゃぁ儲からなくてもいいのか?と来る。そうじゃないだろう?と思うのだが。極論のみに振るのは、議論の放棄じゃないのかねぇ?

保守費用高騰

最近ある集まりの中で話題になったのは、現存する一般の公園設備において、動くものがことごとくなくなりつつある現状があるのではないか?と言う事。

 

皆さんのお住まいのお近くにある、市や区が管理している公園を思い出してほしい。何年も前に話題になった箱ブランコなど、いかにもすぐに怪我をしそうなものがなくなったのはわからないでもない。だがそれ以外の回転遊具など、現存する公園では、ほぼ目にすることがなくなっていないだろうか?

逆に言えば、それがまだある公園は、よほどメンテナンスが行き届いた公園か、放置されている公園かのどちらかに間違いなさそうだ。

 

ものを正常に使い続けられる、というのは、公園遊具に限らずメンテナンスあってこそ。保守運営は、事の多少はあれども、必ず必要になるもの。すべてのモノは、いずれ、経年劣化して行く。それを補いつつ、いつまでも当初の利便性を保たせる事、が、保守の価値。だが、そうやって上手く使い続けられている事…を当たり前と認識すると、「当たり前のための業務って意味あるの?」と価値が正しく判断できなくなる一部の人も。

日本は以前は、事物を修理して、保守して、長くその価値を享受し続けようという文化があったように思う。それがこの何十年かで、保守する方が高くつくところがいろいろ見えてきた。ならやめちまえ!捨てちまえ!という悪しき意識改革が根を張り出しているように見える。リスクや権利にうるさくなった社会というのも理由の一端にはあるだろう。

確かに、技術革新の非常に早い分野は、前のものは切り捨てて新しいものに切り替えることに大きな意味を持つところもあるだろう。が、今最悪なのは、その考え方が、どの分野においても、そう考えられているように見える事。

 

それ、継続して使った方がいいのでは?いや、「やめることによるリスク」とか真剣に考えていますか?見かけの保守費用だけで判断してませんか?

 

もう、「お金で評価していない事」はみんな忘れてしまったんだろうか?その事自体が、文化を捨てている事につながったりもしている側面はありはしないんだろうか?

何でもかんでもお金お金。お金なんて、「一つの評価軸」でしかないんだから。