見ている見えている、考える

今日から新年度。特に日本は4月を契機として、新入学が大きな転機を迎える。同時に卒業した者たちが仕事に就く新たな職場における働きが始まる時期でもある。海外との関連や入試シーズンも勘案して、秋入学に変更したほうが?という意見はいつも出るものの、「時期」が本質ではなく、「いっせいに…」という事の持つ意味の方をどうとらえるかの問題からか、やはり議論や変化は進んでいないのが現状。

 

これに限らないけれど、「見えている事」と「見ている事」の違いによって、表面上の事象に対処したところで、話題にしたところで、結果的には何も進展しなかったり、何も変わらなかったりするという事は多数存在する。

 

同じ事象を「見て」いたと、「見ようとしなければ見えないもの」がかなりの場合存在する。「見えていないもの」は当然気づけていないわけだし、気づけていないものを理解できるわけもない。

 

そう、「見えていないモノがあるかもしれない」と気づくことがまずスタート。「気づいていないモノはないのか?」と疑うことを止めない事。なんとなく「見えている」と思い込んでしまうことが、考えることを止め、理解することを拒む。

 

モノを見ているか、そして見えているか?

見えているものと見るべきものは同じなのか?

刺激に対して単純に反応するだけになっていないか?

考えない事はある意味、楽だ。が、それで大丈夫ですか?

「疑う」と書くと、そうそういつもいつも疑いを持ってみるのは…と拒否する人もいるかもしれないけれど、こう考えてみてはいかがだろうか。それは、「何にも興味を持つこと」。

興味を持てば、「何、それ?」となる。どうしてそうなるの?理屈は何?となれば、必然的にその本質に近づいていく。それで何がどうなるのか?

どうでもいいや!私には関係ないし!と思った瞬間、エネルギー効率はいいかもしれないけれど、ほぼ同時に思考を止めている。

 

考え無くなれば、私は私でいる意味があるだろうか?

 

それを計画しよう

日本では今日をもって年度の終わり。たまたま金曜日にあたっている。さらに今年は…というかついこの間から、「プレミアムフライデー」なんて言うイベント??盛り上げたい内容も含まれている。が、さて、本当にそれで消費等々が喚起されるかはとても怪しいのだが。

 

明日は土曜日だが、明日から新年度が始まる。年の変わり目、月の変わり目などと同じく、年度の変わり目は仕事の変わり目でもある。

これまでいろいろあったけれど、でも何とか終えて、それにまつわるゴタゴタも決着をつけて、もう一度仕切り直せるのがこのタイミング。それを契機に、もう一度ここからどうやってうまくやっていけるかを計画してみたり。

 

そう。計画をする。

仕事をしてきた人は特に、さて今後どうするかな?と計画を立てることが求められたりする。大きな目標に向けて、そこに至るための計画、ステップを描き出す。

とは言え、全員がとは言わないが、昨今は皆に仕事を山ほど詰め込まれ、そもそもけっこうパンパンのスケジュールをしなければ全部がこなせない状況になっている。

 

なのでここでこう提案したい。

「休みを計画しましょう」と。

 

いつ休む、どう休む?すでに実践している人もいらっしゃるだろう。が、たぶんそれは見た目にも実際にも余裕がある人。今回はそうでない人にぜひ実践していただきたい。

今一度確認したい。僕らはなんのために働いているのだろうか、と。

「働くために働いている」だろうか??

いや、たぶん「働くこと」は手段であり、そんなことをしなくても生きていけるとするならば、たぶんそれを選ぶはず。

今一度それをリセットするために、「働いた合間に休む」という日本的感覚をもう一度切り替えて、「まず休む事、自分の本当にしたいことができる時間」を基本に考えたい。そう

「休みを計画」しませんか。

 

どう休むのか、いつ休むのか。

さらにそれが意識できていない人にとっては、何のために休むのか。

なんのために働くのかわからなくなるくらいに、ギリギリまで搾り取られ、働いている人、いらっしゃいませんか?

「働かなくてよくなるために働いている」のですか?そんな本末転倒な意識をもう一度改めるために。

 

別にどこに旅行する必要もない、自分の意識を改め、なんのために働くのかをもう一度考えるために。

休みを計画しましょうよ。ちょうどいい機会ではないですか??

 

 

犯人探し、リスク

責任を取る。多くの日本人が往々にして逃げ回る事でもある。…であるからこそ、この責任は誰にあるのか?をあいまいにしたがる組織があちこちにある。責任が明確でなければ、万が一にもうまく行かなかったときには、逃げ切れる。一度でも汚点を背負うことは、出世街道から、ある意味人生のレールから外れるもの…と思っている人が結構多い。(それによって組織やチームがぼろぼろになろうが、保身のためには関係ねーぜ…って、どうよ?)

 

であるからこそ、責任者を探すことが苦手だというのもある。そもそもあいまいにしたいと思っている組織があるが故のそうした不祥事。なので、探すのには時間も手間もかかるわけだし、それを証明するような証拠が残されていない場合も少なくない。昨今の国会等々における残念な審問は、国民の財産を一体だれが、どのような手順で手渡されるに至ったか、その都度都度の責任者を明確にしなさい、理由を明らかにしなさいという事に尽きると思うのだが。どうも何のための追求か、それに至るにはどのような論理構成で詰めていくべきかといった「解の求め方」が分かっていない人には、右に左に振り回されることにもなるだろう。情けない。そんな人員(議員)を選んだのも国民なのだから。

 

さらに言えば、そもそもそうした責任を「追及できたところ」で物事を終えてはならない。それは「今回おこってしまった事」に対するけじめ。いわば過去の清算でしかない。

今後も同じようなことが起きないようにするためには、今回の清算をすましたうえで、同じような轍を踏まない「仕組み」を構築する必要がある。が、これまた日本人は非常に下手だ。

「あいつがそうしたからいけない。あいつを交代させればいいんだ」

と、「人」に責務を押し付けて、はいオシマイ…が多くないですか?

上記に書いたように、そもそもそれぞれの人は責務を逃げ回るのも現状。だから何度も同じようなあいまいな状況が生まれ、いっこうにモヤモヤが消えない。

 

仕組みで対処しよう、仕組みを作ろう。もちろんそれが「手間」がかかるのは当然の事。だから、「手間」と「それが起きてしまった際の被害の大小」をはかりにかけて、それがもし一度でも起きてしまったらまずいよね。だから手間だけれどもこのくらいは手間をかけないといけないよね…というのが対処の基本。

これでお分かりかと思う。手間とリスクへの取り組みは、すべてバランスの上に成り立っている。ガチガチの仕組みを作ればいいわけでもないし、形だけの仕組みを作って形骸化させるのも意味が違う。何のためにやるのか、その目的のためにどこまで許容するのか。社会と組織と構成員の間でのコンセンサスというバランスの上に成り立たせなければならない事。このどちらかだけを声高に主張する人が多くて、バランスを欠いたり、理解されていると誤解して強い口調で出る人、ホント、なんとかして欲しいんだけどさ。

それでは生産性は上がらない

今まで「人間がやっていたこと」に価値を感じている人にとっては、それが単純化されたり、機械にとってかわられたりした瞬間に、「サービスが下がったな」と思われているなら?そのサービスの生産性はどのようにあげろというのだろうか?

 

考えてみよう。そこで「生産性が」語られているだろうか?

全世界の基準として、生産性とは、「人がサービスしてくれている事の有難さ」が意味合いとして込められているとするなら、たぶん日本における生産性はかなり高いのではないか。こんなに安い賃金で、こんなに気を使ったサービスをいろいろとしていただける国はそうはないんじゃないだろうか?

 

たとえば、料理屋に入って、おしぼりが出てきて、お茶が出てきて…ということだけでもサービス、人手が掛かっている。お客様一人一人にテーブルセットがなされ、箸、箸置き、小皿、ナプキンなどがセットされているところもあれば、それらは「ざっくり」と机に置かれており、それぞれにとってね、というところもある。でもこれを持ってして、ある意味その店のグレードも測られる、若干なりとも人手がかかるところ。ここでいかに効率を上げていくか。

 

もちろん仕事とは接客業のみに限らないのは当然の事。接客業と事務作業とを同じ土俵で扱う事自体に無理があることは承知の上だ。が、その作業が求める「価値ある結果」に関して、人手が今までよりも軽減されることこそが、効率化の一つの帰結。対人に対するサービス業における効率も効率だし、事務作業の手作業を自動計算に変えるだけでも効率化が図れる。

…が、そうして「効率化してしまったが為に、今までそれを仕事としてきた人の仕事がなくなるから…」というだけの理由で、その手順が残っている事。要するに「効率を上げることによる雇用機会の削減」が行われることとの戦いとなっており、終身雇用を意識していたこれまでは既得権を奪うわけにもいかず、効率化の障壁ともなっていたり。

 

要するに、今までとは違う何かを生み出し続けなければ、価値を生み続けなければ生き続けていけない。同じ価値でも「今までと違うマーケット」で価値が認められるならそれも有りとしての話。そのようにして、組織も、「個人」も価値を生み出し続ける…という前提がこれまでの経済原理の根本だ。

 

こう言い切ってしまうと、それでは風情も何もない、寂しい状態だ…というなら、そこに「その人が介在することに対する価値は、同じ結果であったとしても価値が高いこと」を認めてもらえるか否かが問われるのは当然の事。「対価」を求めるならば、対価に応じた価値を提供せよという事でもある。ただし、たぶんこれは「効率化」という言葉の範疇の外側にある事ではないのか?と思っている。それは芸術や文化的なものに近づいていることになり、今で言う芸能やアートの世界の価値になる。並大抵のレベルでは、この価値は認められないだろう。いや、すでに日本のサービスにおいては、そこまで提供されているところもあるのだろうけれど。

 

とは言え、人が介在するところすべてに価値を生めるとも思っていない。そこまでせずともいいだろうとか、その程度でお金を取るなという、機械で代替できるところもある。いわば受け手の視点から見た効率化すべきポイントを的確にヒットできているかということ。サービス提供者サイドは、その部分を「効率化する」ことが必要になっているという事。事務作業においては、「全体最適」から見た「無駄作業」をなくしていけているのか?ということ。「個別最適」は時に、あちこちに無駄な手間を生むことに。

 

そうした「全体最適」を目指すことこそが効率化向上のポイント。…だけれど、実際に行われている多くは、すべての「個別最適」の積み上げになっているというのが、この国の問題かな。誰も「お国主導」など信じていないようだから。

 

オフィス街のランチから

日本有数のとあるビジネス街で働く日々。お昼に知人とランチをしに街へ出る。

お昼そのものだと込みますからね…ってことで20分ほど早めに出てきて、さて、どこへ行きましょうか?としばし歓談。昨今のビジネス街においては、たぶんどこでも、期待するどんな料理もどこかで提供されている。家庭料理風定食から始まり、ラーメン、カレー、丼もの、イタリアン、フレンチ、なんでもござれ。

じゃぁ今日は久々にあのカレー屋さんに…ということになって、5分ほど足を延ばした。

 

相変わらずその近辺の料理屋も混んでいたのだが、ちょっと様子が違う。

…。閉まっているのだ。

張り紙がある。

「人手不足により仕込みが十分にできず云々」

あきらめてその日は他の料理を模索。

 

少し考えてみるとわかるだろう。オフィス街。家賃は相当高いはずだ。であるがため、稼ぎ時のランチタイムに閉めるというのがどれほどもったいないことなのか。それをしなければ回らないくらいに人手が不足し始めているという事。

 

ふと新聞やWebの記事に注目してみると、確かに、人手不足で閉店、店舗数縮小などという記事が当たり前のように見受けられる。店側も店側できついのだろう。

働く人を集めようと思うと、単純には賃金をあげれば、寄ってくる。すでにバイトの時給はかなりのモノに。だがこれとて、そうそう簡単にガンガンあげられるものでもないのは店側の事情。いきなり倍の賃金は払えない。売り上げがいきなり倍増するはずもないのだから。

 

人口は減る。労働人口も減る。となれば小売業では当たり前の、「客単価」をあげるしかないはずなのだが、そもそもデフレの状況をまだ抜けきっていない「日本」がここにある。

 

どっちから先に…というのはもちろんそうなのだが、でも、どこかで賃金をあげないと働く気力もなくすだろう。サービスも低下するだろう。

…でも、いまだからこそ、「本当に必要とされていなかったサービス」を撤廃し、「本当に必要とされるサービス」を、少々高くても実施してみること。ここにこそチャンスがあるはず。それは、以前の経営者では考えつかなかった、実行できなかったことかもしれない。時代が移り変わったことで出てきた新たなニーズかもしれない。それを敏感に感じ、商品、サービスに作り替えていくこと。今までと同じはもうあり得ない。いや、今までと同じことは、これからは「とても高価である」ということを認識させること。これこそが、ビジネスサイドからのマインド変革なんじゃないかな。

 

#「今までと同じものをより安く…」ばっかりじゃん。