「同じ」の価値は

先日も書いたけれど、みんなと「同じ」というのは価値がさほど高くない。誰かと同じことができても高い価値は認められない。あなたができなくなったら誰かと交換可能だという事、凡庸な価値だということに。

 

ただし、それも「視点」しだい。

たとえば、皆さんの多くは会社で効率をあげろと突き上げを食らっている事だろう。効率を上げるには、似たような作業は同じタイミングで一斉に処理できれば効率があげられる。そう、「同じ」にすることで効率を上げることができる。これはそれを裁く方、作業する方にすれば、「同じである事」は大きな価値になる。だからこそ、バリエーションをもたせて対応するより、いつでもどんな時でも、対応は同じ、にする事はありえる。

 

しかし「裁かれる方」「対応される方」からすると、十把一絡げに扱われるのはいい気はしない。それぞれに応じたそれぞれに適した対応にこそ「受ける方は」価値を感じるもの。

 

だから「同じ」と言えども、それを「する方」なのか「される方」なのかで、価値観は全く逆転するということ。これすらごちゃまぜにしてしまっては意味がない。

 

自分が「する方」になる場合には、「同じ」にそろえて効率化を。しかし「される方」になるのなら、皆と同じ行動をしないようにしたり、同じ時間、同じ場所を選択しないようにする事。

 

ほら、毎日の昼食、12時から30分ずらすだけでも、お店の混みが違うのでは?

 

解はある、が正解とは

解は何においても存在する。ただし、それが「より良い解」 なのか、「最悪の解」なのか、「ベストの解」なのかはなかなか判断しづらいのが現実。それが社会における「解」だろう。

 

時に「正しい解」を求めることはなくはない。が、学校生活で求めていた「唯一絶対の解」だけが存在することはまずない。となった瞬間に、解はいくらも出てくる。そもそもその「解」を評価する基準は何か?となると、時間、お金、手間、機会、立場などなど、さまざまな要因が出てくる。誰かにとっての「良い解」は、別の人にとっての「良くない解」になりえる。

 

こうなると、 選択する「解」はたいてい妥協案だったり、譲歩案だったりと、いくらか譲るポイントが存在する。その「何」を譲るのか?お金か、時間か、立場か…。要するに誰かにとっての何かの妥協の産物こそが「解」なのだ。たまに、全員にとって良い解があったとしても、それは、そこでは認識できていないほかの誰か(たとえば、100年後の人類)に対して、悪い影響を与えるかもしれない解になっている場合だってあるのだ。

 

さて、「その解」で、誰の妥協点を見出したのだろうか?

そもそもその時点に文句を言いたくなった、今から見ると未来の人類は、今の我々に、直接文句を言う機会がなかったりするわけなのだが。

 

 

デジタルは遅い

もうこの書き込みを読んでいるような人は、昔の事情を知らない人かもしれないけれど。

すでに過去のメディアになってしまったビデオテープ。VHSという名前で、厚手の単行本くらいのサイズの媒体に、標準なら2時間、3倍速なら6時間分のテレビ番組が録画できた。

結構早い時期から、「留守録機能」が完備された。その時間にテレビの前にいなくても、代わりにビデオデッキが番組を録ってくれていて、別の時間にそれを楽しむことができる。ビデオ映像のタイムシフト概念が生まれたのは、昭和の最後の10年にも満たない時期だ。

 

とは言え、「留守録機能」は機器の操作がむつかしいと言われ、なかなか思い通りの時間にセットできない人がたくさんいた。それに対する様々な対策、簡単操作自体が、「機器の価値」として、新しい商品が毎年のように更新されていた時代だ。

そうして「正しい留守録」がセットされたとしても、今度はそのデッキ自体の時計機能が問題になる。今のように電波時計が完備している時代ではない。なので、録画予約が正しくなされていたとしても、デッキの時計が数分くるってしまっていれば、番組の頭が切れたり、お尻が切れたり…というトラブルも起きてしまう。

こうしたことが起きないように、機器の時間合わせをどのように設定するか?一部のメーカーは、NHK教育テレビ時報を使った。正午の時報にあわせて、「ポッ、ポッ、ポッ、ポーーンーーー」というあの時報。この時刻あたりになると、自動的にNHK教育にチャンネルを合わせ、その時報を基に、デッキ自身の時計を調節する。これによりデッキの時計はほぼ正確にあわされ、それによってデッキの時計が狂うことによる番組の取り損ないはなくなった。

 

でもいまはそんなやり方はたぶんしていない。そして多分できない。

それはそもそもテレビで「正確な時報」を流せないから。

 

アナログ時代…それは放送局からの電波を直接受像していた、光の速さでの時代。だからこそ時報が放送で来た。しかし今はデジタル放送時代。デジタルになるとなにか余計に速くなりそう…にも思うかもしれないが、デジタル放送になって、「放送は遅れ」て届くことになった。だから皆さんご存知の通り、ニュース番組など、何となく始まる。正確に「今19時ちょうどです!」と表示できないのがデジタル。光の速さでデータは届いても、それを「そのテレビが、音と映像に組み替えてテレビ画面に映し出す」のに若干の時間がかかるので、正確さを欠くからだ。

家電量販店で、各メーカーのテレビが並んで同じ放送局の番組を映しているときに見比べてみればいい。たぶん何台かのテレビは、若干遅れて映像を映している。(最近はそれを嫌ってか、放送を流すのではなく、録画コンテンツを表示するメーカーも少なくないようだが。)

 

そう、デジタルが早いと勘違いしがちだが、デジタルだと遅いのですよ。 

だからどうよ…という話ではないのですがね。

 

わかるは分ける

そもそもはじめは、呪術師の様な者が、悪いものが憑いているとかいないとか…といったあたりから医学の始まりはあるわけで。

 

とは言え、はじめはきっとこんな感じだったのではないか?

「身体の調子が悪い」となれば、それは上半身なのか?下半身なのか?

「上半身」とするなら、「首から上」か、「首から下」か?

「首から下」となれば、「身体」か「腕」か?

といった形で、部位を特定する、要するに「部分」という形に分けてとらえていったはず。

 

今でこそ、体調が悪いと自ら内科に行ってみたりするわけだが、「歯が痛い」といって内科に行く人はいないし、「胃痛がするから」と歯医者を訪れる人もいない。患者の方がある程度まで切り分けたうえで、さらに細かく分析する技術を持つ専門家/専門医に訪れて治療をお願いする。

 

そう、より正確に精緻に分けて、そこをピンポイントで治してもらうための治療を期待する。対処するためには理解しなければならず、理解するために、できるだけピンポイントに分けて理解する。それは医療に限らず、物事の対処方法すべてにおいていえる事。

 

分かるために分ける、ピンポイント化するわけだ。

 

「何が問題なのかが分からない」というのは、そもそも「分け方が大きすぎる」という事だったりしないか。対処できるほどに、対策を打てるほどに分けてこそ意味があるという事。

ただ、現実的には細かく分けすぎている場合がなくはない。がしかし、多くの物事は、そもそも十分に分けられていない、分かる/理解できるほどに分かれていない事自体が物事を複雑化し、時間をかけているという実態があるのも事実。ごちゃ混ぜになっているものを分けて、個別に対処していくからこそ前進する。

 

その問題、分けてますか?

 

 

 

ダイバーシティは学校から

芸術系大学、音大、芸大は、他の大学とは一線を画しているだろう。だがそれ以外の大学の多くはほぼ、学力の偏差値という一つの評価軸で、たいてい東大を筆頭に、下にずらりと序列化されている。他の方法も試されていないわけでは無いので一昔前ほどではないだろうけれど、それでもやはり、「テストの成績の良い順」というのがこの評価方法であり、評価軸だ。

 

会社では、また昨今の社会では、ダイバーシティという考え方が出てきている。多様性を尊重しましょう。いろいろな考え、価値が存在しますよね、と。これは違う言い方をするならば、一本ではないさまざまな評価軸が存在し、どの評価軸で見るかによって、人はどこかの軸に得意なものを持っているはずではないかという事。

でも、それが「日本の大学」という偏差値、言い換えればテストの点数という学力評価軸でのみ評価されたものでいったんスクリーニングされた後に社会に出る者が多いために、結果的にダイバーシティ化されていない入り口になっていて、会社に入った後から、あらためてダイバーシティを考えるなどという、まぁ無駄なフィルター操作をしていることに。

 

今に始まったことではないんだけれど、そもそも日本の教育制度として、高校受験、大学受験となると、当事者は「で、いいのはどこなの?」とよりよい正しさを探そうとし、結果的にその正しさの評価軸として学力の評価軸「だけ」を選んできたからこそ今が構築されている。

 

とはいえ。すでに徐々にではあるだろうけれど、学校の評価基準もばらけ始めている気がする。これも非常に日本らしいと思うけれど、「日本の中の学校どうし」でそれが起こったというよりも、「日本の大学に行くぐらいなら、最初から海外の大学で」といった進路を取る者が現れだしてきたからこその現実。いわゆる東大に何名も送りだしていたような既存のトップ高校から、東大を止めてハーバードに、などといった進路を取る者が出始めているという事。

 

今日言って明日変わるとは思えないけれど、「学力一辺倒」では、その軸での落ちこぼれを多数作るのがオチではないか。これからは多様性、「それも価値ですね」の時代。だから「解」はいろいろあって、「それも正解です」という時代になるはず。それがダイバーシティでしょ?でも別の価値を「受け入れる」ってのは、思考の柔軟性が必要なんですよね。