目標はあれど

いろいろと、会社やバイト、勉強などなど、目標を立てることはあるだろう。

「〇〇資格」に今年中に合格!とか、

TOEIC、600点越えを年内に!とか、

漢字検定1級合格!とかとかとか…。

 

そうした「目標」を立てるのが悪いなどとは言わない。ぜひそこに向かって邁進していただきたい…のだが、そういう方々に聞いてみたい。「で、その目標が達成された暁には、どうなっていたいのでしょうか?」と

 

明確に答えが返ってくることもある。

「就活で入りたい会社に入るため」とか、

「昇進試験の前提条件なのです」といったものがある場合、

その目的は、

「就職」であり、

「昇進」という目的を成し遂げることだろう。

 

だが、そうした「目標」は掲げるものの、で、その後になりたい何かを見失っている、明確にしていない、意識していない人が少なくないのではないか?

 

TOEIC、点数を取ったはいいけれど、で、英語でコミュニケーションをとる必要はどのくらいあるのだろうか?やってみたけど、取ってみたけど、結果、仕事でも日常でも使わなかった…なんていうと、それこその時間で何か別の事をやっていた方が、本人にとっても良いことだったかもしれないし。

 

その「目標」を達成したうえで、どうなりたいですか?

 

これ、究極まで行ってしまうと、あなたにとっての幸せとは?といったところまで行っちゃう話でもあったりする。さすがにすべての人が、明確な未来の状態を描けているとは思わないけれど、漠然とでもイメージしておく、意識しておくことは決して無駄ではないはず。

 

だから問う。その目標は何のために設定しているのか?

「目的」は何ですか?と

 

 

ゼロリスク信仰

物事、リスクが無い、ゼロで進めることができればそれに越したことはないのだが、どう考えてもゼロリスクで進めるとデメリットの方が大きいことが多々ある。それを見ずに、なんでもかんでも「ゼロリスク」だけを目指して、全てのリスクがなくならなければやらないよ、と言うスタンスだけでは、結果的にどうしようもなくなるのではないだろうか?

 

原発にせよ、築地の移転問題にせよ、ゼロリスクは正直なところ無理な話だ。やった場合のメリットデメリット、やらなかった場合のメリットデメリットをバランスを取って判断する以外に、方法がないだろう。

だから何か言うと「リスクが…」と一見反論する輩はいるけれど、ならその人に「どこまでならリスクが取れて(もしくは全くリスクを取らないかもしれない)、それによるやった事による不利益と同時に、やらなかった事による不利益をどう考えるのか」を表明してもらわなければ、リスクだけを語るのであれば、屁理屈をこねているに等しくないだろうか?

 

そろそろ、中学や高校あたりで、「リスク」に対する理解と、正しいアプローチの仕方を学ぶ機会を設けたほうが良い気がするのだけれど。

 

日本の教育において、お金にまつわる話をはじめとして、社会に出る前に、きちんと学ぶ機会がないものって、いくつかある気がするんですけどね。リスクもその一つなんじゃないのかな。

マネジメントをミスると

ある日のオフィス街での昼食。仕事仲間と、「久しぶりに一緒にランチでも」となり、エレベーターを一緒に降りる。

「さて、どこにしますかねぇ」

などと言いながら、じゃああのどんぶりのお店にしましょうか?と双方意見がまとまった。

 

時間はお昼のピークを越えたであろう12時40分ごろか。別に特別な日でもなく、いつもの日常、いつもの人出のランチタイム。

 

そのお店に行こうと遠くから目星を付けると、ひとりのサラリーマンが先にそこに入りかけて店員と話したのち、店から遠ざかっていく。「?」と思いながらも店に近づくと、「閉店」の看板が。しかし店内には何人かが昼食を食べている様子。

何が起こっているのかわからずに、近くの店員に聞いてみる?

 

「閉店?ってどういうこと?」

「実はご飯が足りなくなって、今、追加で炊いている最中なんです。」

「何分くらいかかりそう?」

「ちょっと聞いてきます」

5分10分なら待とうと思って覚悟をしたところ…。

「すみません、早くて20分くらいかかりそうなんです…」

「あ、そうなのね。じゃ他を探すよ」

ということで、その同僚とは別の店で無事にランチを取ったのだが。

 

ちょっとした飲食店で、ランチ時に「何回転させるか」は、その店の存亡にかかわるほどの売り上げに影響するはずで。ましてや、賃料も高いであろうオフィス街において、こんな大失態をしている状況にはじめてお目にかかった。

 

これは何が悪かったのか?そもそもご飯担当のメンバーがスイッチを入れ忘れる…的ミスなのだろうけれど、ざっくり言えば「マネジメントの欠如」に他ならないだろう。

もしも別の日に、ご飯担当がスイッチを入れ忘れていても、当日来店したお客の数が少なければ、足りたかもしれないのだ。もしもいつも通り、ご飯担当がスイッチをきちんと入れる作業をしたとしても、特別なイベントなどの影響で当日来店したお客の数が以上に多ければ、当然足りなくなっただろう。

マネジメントとは、いつもと同じ「こと」をすることではなく、(この場合は)いつもと同じ「状況」にすること、この店の場合には、お客に対応してご飯が足りなくならないようにする事こそが、マネジメントだろう。だから単なる「作業のみ」に注目していては根本原因を解決したことにはならず、「状況に応じた作業」に注目して、それを解決することが望まれているはず。「決められた作業」を見ているだけでは、単なる作業管理者に他ならない。マネジメントとは目的を目指して人を動かす、人に動いてもらうこと。

 

なんてのをぼんやり考えつつ、ランチタイムは終わる。

また別の日にあの店に行ってみようか。

 

 

価値を見出す

さて、日本のゴールデンウィークはほぼ無事終了。今年の関東地方はお天気に恵まれ、あちこちに出かけたという人も多いのではないだろうか。で、いつも思う。どこへ行っても混んでるし、待ち時間は結構あるし、結構それぞれの場所で物は高いし…。でもせっかく来たのだからとお支払い。こうして経済は回っているんだよねと納得させつつ。

 

当然ながら、みんなで同時に休めるからこそみんなで楽しんだり、遊びに行ったりすることができる。が、みんなと同じであるがゆえに、「混む」とか「時間がかかる」とか「特別料金」といった別の付加価値代金を支払うことにもなる。もちろん、その方法でしか手がなければその価値はあるだろう。ただ人と同じというのはいろんな意味で損でもある。

 

誰しも同じだからこそ「混む」し、であるがゆえに「時間がかかる、待ち時間が長くなる」。そしてみんなが殺到する、その時しかないので、「特別料金」すらも払わざるを得なくなる。

 

もしみんなと違えば?

たとえば、ほとんど誰も行かない場所に行く、誰も行かない時間に行く。…とこう提案するとこう聞き返されるのだ。

「そんなことして、楽しいわけ?」

もちろん、楽しいようにするのですよ。要は、誰かから与えられた価値観を過ごすか、出なければ自分で楽しみを作ったり、楽しみを見つけたり、そこに価値を見いだせれば楽しいわけで。

であれば、同じ日に休むことができなかったり、別の休みが取れたりする人には、それなりのリターンがあるという事。まず混まないし、待ち時間もまずないし、特別料金も高い方はまずなくて、時には安かったり。

 

日本人だけではないとは思うけれど、特に同調圧力を強く感じたとしても、人と違う事に自信を持つ事。楽しみを自分で見つける事。それ楽しいの?と思うんじゃなくて、楽しくないなら楽しくする事。

 

これ、仕事も同じじゃないかな。やらされているだけなら、たぶん楽しくないでしょ?仕事。楽しくすればいいんじゃないの?もちろん、誰にでも当てはまるはずなんだけど、多少の余裕がないと対応できないのも事実。そこまでやらされ仕事に費やさなければならない状況の場合は、逃げた方がいいかも。

 

 

捨てる は 決断、持つは

「既得権」という言葉がある。文字通り「既に得ている権利」のこと。すでに持っているモノは失いたくないし手放したくない人が多い。たとえそれが形のない権利であろうと形のあるモノであろうと、ここで手放してしまうことで、もしかするともう二度と手に入らないかもしれないからだ。これを手にするのにどれだけ苦労したことか…なんて言う苦労話が価値の源泉になっていたりする。であるがゆえに「既得権」を差し出す立場の人、奪われる立場の人は大きな抵抗になる。

 

既得権は、まだこれが「権利」だから、いくら持っていても場所がいっぱいになる…ということはない。だが「既得」というのは権利のみならず、すでに持っているすべてのモノにおいて成り立ちうる。

さらに言えば、「権利」は基本的に何らかの「責務」を伴っている。だから持っているという事は、何かを果たさねばならない事もいっしょに背負っているという事。これはこれで本来は大変重たいモノであるはずなのだ。が、「それ」を持ち続けたいという人の多くの場合においては、その責務の重さと権利の重さとのバランスが取れていない(責務が小さすぎる)ことが多いんだろうと想像したりする。

 

それが権利ではなく物の場合、よほどのスペースがない限り、は無限に持ち続けられない。権利も、誰かに譲れるものもあるけれど、「あなただから」持てているモノもある。それは「誰か別の人」では意味がない場合は、すなわち譲渡できないということだ。
たまに、家族の誰かが亡くなって、故人が趣味で集めていたものが二束三文でフリーマーケットや古本屋などに放出されてびっくりしたりすることがある、というのがまさにこの一例。価値のわからない家人にとっては、どんなものであっても、場所を占有するモノにしか見えていない。

 

 こうした「既得のモノ」があふれているというのが現在。いや、消費活動を活発化させようとするなら、何らかのモノを売り買いすることによって経済が回りだすのだから、ある意味当たり前の状況ともいえる。

ただ、そうしてできた「モノ」が、これからも継続して意味を持ち続けるかは別の話だ(逆に言えば、今は価値がないものでも、今後価値が生まれてくるものも当然出てくるのだが)。

 

既得「物」としてのモノは特に、「思い出」という価値が乗っかっている部分もなくはない。が、「昔はそうだったが、今の時代にそれは希少価値も何もない」という物も少なくない。だが先にも書いたように、「今の価値」を冷静に判断しているかというと(そういう人もいるのだろうけれど)、それを「手に入れるための苦労」を価値としてあがめている人が結構いるのかも、という事。

あなたがそれに託している/持ち続けている意味は、それを「手にするための苦労」に対しての価値なのか?それとも今現在の「それ自身」の世間的に評価された価値なのか?

 

もっと言えば、そうしたことを考える事すら放棄していたりしないだろうか?価値を考えることが大変だから、考えない。でも万が一価値があるとまずいので手元においてはいるがほったらかしている、なので現実には見てくれとしてのモノが、ゴミ山のようにたまっていないだろうか?

 

断捨離が相変わらず流行している。ごく少数のモノしか持たない人たちも出始めている。モノをたくさん持ちすぎて、事実上価値のないモノ、ゴミがたまっている人は、捨てるための「判断をする」のが大変だという人。それはそこまで判断することに疲れてきた/放棄してきた人なのではないだろうか?考えるという事、決めるという事にはエネルギーが要る。何かを振り払う、もしくはこれからも背負い続けるという「覚悟」なのだらか。

 

昔のようにモノを簡単に捨てられる環境でもなくなった。分別し、場合によっては捨てるための作業にもお金がかかる現在。捨てるという事は決断でありお金がかかる事。

 

そう、「持つこと」が贅沢な事なのかもしれない。そして結構多くの人が、「持つ」という贅沢である種の満足感を得ているところがあるのかもしれない。