インプットの質

ネット以前の情報源はと言うと、本や雑誌、新聞ラジオテレビがほとんど。特にラジオやテレビは、向こうから一方的にどんどんと情報を流してくる。好きであろうがなかろうがあまり関係なく。その中から気になったもの、引っかかるものを、新聞や本や雑誌で補い、さらに深堀するというのが当時のやり方だろうか。

 

ところが今や、新聞を定期購読として取らなくなった世帯が増え、テレビがない世帯も出始めているというご時世。ただしそうした人々が情報を取れなくなったのかと言うとそうではなく、新聞情報の一部、テレビも最近は一部が、ネットを通じて情報を提供し始め、そういうところからの情報で満足していると言う時代。

ググレカスという言葉が跋扈した時期もあった通り、まずは「自分でネット上を探してみる」ことが当たり前のように求められる。

 

ただしこれもよく言われることだが、「ネットから摂取する情報」というのは、自ら摂取する際に(主に気になっていることのみに)フィルタリングしていることがほとんどであり、そもそも自分に興味のあるところの情報ばかりが偏って集まる。いわばオタク製造のためには非常に良いツールともいえるが、偏った知識情報、偏見情報が集まりやすいことになる。

ただでさえ情報は、平等性を注意したとしても偏りがちなのに、そもそも摂取する時点から偏っている人たちが大量にいては、そもそもの意見の接点はどんどんかい離し始めるのは道理だろう。情報の方より、摂取時、インプット時の情報の質を意識できていなければ、それ自体が「色眼鏡」であるという事実。

 

 

もしかすると昨今の若者は「情報」という授業科目を通じてそのようなリテラシーは習得済みなのかもしれない。むしろ、そういう教育がなされずに社会に出てからネット環境が出来上がった世代、たぶん今のアラフォー以上あたりがいちばん偏りが激しいのかもね。

 

インプットの質、担保できてますか?嫌いな情報も摂取してますか?

小さい子に「ピーマンも栄養があるんだから食べなさい!」と怒っているあなた。「嫌いな情報もそれなりに意味があるんだから、一応読みなさい!」ね。(笑)

 

ムチャする奴が

ここまでネットが発達する以前、電子メールが互いにやり取りできるといった程度がやっとの環境を、一部企業と一部大学との間で、互いに手弁当でネットワークを張ったところからスタートしたのが日本のインターネット。その後ネットがどんどん広がり発達して、いろんなサービス、システムが生み出された。今では家にいながら様々なサービスを受け、発注が完了し、お金まで振り込むことができるような世界が実現された。

 

上記にある通り、当初は「ある程度分かった人々」が、その「わかっている事」が前提で接続、運用されていたからこそのネット。なので、こんなムチャをするとヤバいか…ということは、お互い良く分かった上で運用をしていた。だからこそ、安くできたし、だからこそ発達してきた過去がある。

 

だが昨今はと言うと、前提が以前とは違い、ムチャする奴がいるかもしれない、だからそれに対しては歯止めをかけたり、対策を打ったりすることが必要になってくる。これをアナウンスしていなかったり、対策を打てていなかったりすると、その部分で無茶を強いられることによってサービス提供企業が大打撃を受けたり、社会的に訴えられかねない面倒な状況だ。

この一番の例として、無制限に容量を提供するネットワークストレージというのは、一般コンシューマ向けとしてはいまだ成功していないのではないだろうか?なぜなら、一般向けとなった瞬間に、とんでもないムチャをする輩が必ず出てくるからだ。これに対する対策を考えたり、手を打ったりする事自体が高コスト。だから性善説で回せる世界と言うのは、(うっかりミスに対する対策は必要ではある者の)面倒な対策コストが大きく抑えられる世界。

でも、性善説で回している世界は、ある意味、隠れて悪いことを一人くらい実行しても、まぁまぁうまく回ってしまう世界。その意味では、「正直者が馬鹿を見るかもしれない世界」と言ってもいいかもしれない。が、そう言う世界だからこそ安く、上手く、ギスギスせずに回った世界。

 

そう考えるとやはり、正直者が馬鹿を見ないような、損をしないような、そんな世界を作るためのコストは、今や多少なりともかけざるを得ないのかもね。

私は、少しコストをかける程度で正直者が良い思いをする世界の方が、結果として住みやすい、安心できる世界になると信じているのだけれど。

 

それから得た教訓

優れた人は、歴史から学んだり、自分の経験から学んだりと、さまざまなところからさまざまな形で教訓を得る。ただこの教訓は、それが指し示す「正しい方向」で学習してこそ意味があるものであり、場合によって間違ったメッセージとして受け止めた瞬間に、当人やその組織の行動は、どんどんと今で言うところのブラック化していく可能性を秘めている。

 

トラブルや事故が起きた際に、その原因をきちんと突きとめ、これは二度と起きないようにしなければいけない…ということを繰り返して、システムがより洗練されたり、面倒だけれど安全側に倒したルールなどが出来上がる。それら多くは、組織や人間のためになる方向でやるならば、起きない方が良いし、その方がメリットになるからだ。

 

ただ、人によっては、そこから間違った教訓を得た人たちが出ているでしょう現実に。 

 

いまだに爪痕が激しい原発事故。この教訓はさまざまあるだろうけれど、一つは、「やはり正しく廃棄するコストまでを見据えてみると、原発は高い買い物だ」という事のはずだ。今の世代「だけ」から見れば安く見えても、50年後100年後の世代に廃炉費用を押し付けるのはお門違いだと思うのだ。

とは言え、明日からやめる、という事もむつかしいのはその通り。なので、「やめる方向で、軟着陸案を検討実行していく」という方向性を打ち出すべきというのが、「私が得た」教訓。

 

しかし、たぶん一部の人々、特に事故当時に偉かった人たちはこんな教訓を得たのではないだろうか?「こんな手が出せなくなるもの、危険なものを扱っていて、回復のための手が出せないような甚大な被害を出したとしても、適切に責任が問われない」という教訓…ではないですか?

対処の仕方それ自体がメッセージになる。そして、この対処を一度間違えると、それ以降の振る舞いが途端にむつかしくなるというのも道理。正しく理解され、その後の処理がなされないと、それが前例になり、あとの世界が歪み始めませんかね。と、今こんな小さなところでつぶやいていてもね。 orz

 

 

テレビという病

企業が成長し、大企業になって行く。そのためには成長するに足るヒット商品、ヒットサービスや商品があったからこそジワリと、もしくは一気に伸びて来たかという事。

そうしたサービスや商品が一時の流行りを通り越し、その後の社会のシステムに組み込まれ始めると落ち着きだす。まさに「スマホ」の今がそのような状況の一つではないだろうか。

 

ただこうして一つのヒットが落ち着き始めると、(実際は、落ち着く時期が見え始める以前から)企業は次の飯の種を心配し始める。経済の常として、常に成長することが求められるから。だから、今のヒットの次のヒット、次に当たるモノを探し、それを今のうちから仕込み始める必要があるからだ。

…と、言うのは簡単。そんなに当たるサービスや商品が、誰かにわかるわけがない。当てようとしているが当たらない、と言うものがほとんど。となると、どうしても少し保守的なアプローチが出てくる。たとえば、ライバル企業が当てているものの真似事、他の分野の取り込みなどなど。

会社の中ではそうした次の企画、サービス、商品を常に考える部署があったりする。頭をひねり、データを整備し、…だから次に当たる可能性が高い!というプレゼンをして、稟議書に承認をいただいたうえでGo!

だが、これとて簡単にいくわけもない。そもそも承認する者はこう言う。

  で、本当に当たるの?

  証拠は?

  他はどうなの?どっか別のところはやってるの?

こうした言葉を落ち着いて見てみれば、「本当に当たるかどうかなど判るわけもない」し「証拠」が示せれば絶対にあたるわけもなく、「他がやっていて当たっていれば、うちがやったところで新規性はない」というのは一目瞭然。であるにもかかわらず、承認者は「失敗を恐れる」。成功の確率をあげようと、裏どりしたがる。

 

そしてこの「恐れ」は、ジワジワと会社の中に病のように広がっていく。

単なる思い付き、奇抜なものを提案したところで到底承認されるものではない。となるならば、より安パイを狙って、今年うまく行ったのを少し調整して…などということを提案して、それが承認を通ってサービス、製品となって世に出ていく。だが当然、そんなものが大ヒットになることはまずなく、場合によっては失敗することだってある。いわゆる失敗を恐れるがあまり、じり貧になって行くという病。

 

テレビ番組は、昔は深夜番組でかなりのムチャもやっていた。その中から、面白いものはだんだんと早い時間帯、ゴールデンに上って来て視聴率を稼いだりもした。(ただ、ゴールデンに出てきたことで面白くなくなった番組も、かなりたくさんあったようだけれど)。さらに一昔前に比べて、テレビは自主規制が非常に厳しいらしい。使えない映像、使えない言葉が山のように。より多くの人におもねるために保守的動きが強くならざるを得なくなる。

 

これに対して、昨今、ネット配信と言う映像配信が、技術的、インフラ的にほぼ確立し始めている。いわゆる電波利権と言われるような放送局の免許を持たずとも、資本さえあれば、素人でさえもがネットを通じて映像を配信できる。ネットの巨大企業はそのうえで、大きな金を投入して、これまでのテレビでは流せなかったようなストーリー、映像、内容をどんどんと流し始めている。これは一部の制限を除いて技術的には国境すら超えることはむつかしくない。さらに英語圏向けに作られているコンテンツは全世界が見据えられるため、全世界に向けて売り込みがかけられるとわかれば、投下資本を回収できる可能性も高く、であるがゆえにこれまでのテレビ局が使えるコンテンツ当たりの費用を超える巨大費用が投下できる。

 

相対的にあっという間に、テレビコンテンツが面白くなくなり、ネットコンテンツに支配されはじめる現実が見えてきている。特に日本は「日本語」という参入障壁もあるのだけれど、それでもネットコンテンツの流入は現実化している。逆に日本語と言う障壁が、コンテンツ市場の狭さの要因にもなっている。

逆に言えば、日本のアニメコンテンツなどを(吹き替えなども積極的に)全世界にコンテンツとして流せるチャンスでもあるはず。ここにお金を投下せずしてどうするのか??とも思うのだが。

 

自主規制で自ら首を絞め、ヒットしない事を恐れるがゆえに縮小しようとしている業界と。そもそも何でもありで、世界を見据えてガンガンコンテンツを出していこうとしている業界と。

すくなくとも日本のテレビ業界においては、いわゆる大企業病と全く同じ状況になっていることが散見される昨今。たとえばいったん、25時を過ぎた枠あたりを、無法地帯とは言わないけれど、昔のような勢いのあるコンテンツを許す時間帯にしてもいいんじゃないかなと、勝手に思ったりするのだが。

(とは言え、これは、録画機器の性能向上などなどとも相まって、なかなか業界全体でと言った形で動いているうちは無理なのかもね。…なんて言っていられるのはあと何年か…)

 

 

 

知識と決断

会社の中で、上司や上役は、さまざまな情報を手にしたうえで、さて、この先どうしていくか、どちらに向かって進めていくかを判断し、組織をそちらへ動かしていく。場合によっては、「この部分の情報をもっと精緻に」と追加の指示を出して、その次の機会に、それらが提示された子をと受けて、判断し、こちらにこうして進めるぞという決断を下す。

 

まさに「決断を下す」というのが仕事であり、そのために必要な情報は何かな?この時には何を見ておかないといけない、考えておかないといけないかな?ということが、より多角的に、抜けなく検討できる、考えられる「知識」を持っていないといけない。

 

だが、日本の(少なくともこれまでの)教育においては、ほぼ知識ばかりが優先されていた気がする。これを覚えておきなさい、これを考えなさい。そうした頭でっかちになるのはいいのだが、決断はどこかで必ず下す必要性が出てくる。場合によっては、今は得られない情報があったとしても、腹をくくって決断せざるを得ない場面に遭遇する事さえある。そこで決められなければ、それはその人の責務を果たしていない事になる。

 

 

これが面白いところでもあるのだが、「決断」には「知識が欠かせない」のはある意味での事実だが、「知識がなければ必ずしも正しい決断ができない」と言うわけではない。この逆もあって、「知識や情報が正しく入っていれば、必ず正しい決断が下せる」と言うわけでもない。

もちろん、一般的には、より正しい情報を正しく判断できる知識があって、それに基づいてこそ正しい決断を下せる確率は上がるわけだ。が、そもそも昨今の日本において、この「決断」がブレブレであり、いつもいつもひっくり返したりする事ばかりして、お金も時間も無駄にしてしまっている事ばかりではないだろうか?

 

企業も、国も、いったん何らかの栄華を垣間見た組織や集合体は、失敗を恐れて決断できなくなるという事だろうか。失敗を恐れるがあまり、ずっとじり貧ですたれていくということを甘んじて受けなければならなくなっているのが今の日本ではなかろうか?

 

今回の選挙もそうだが、ことしもいくつかの選挙がある。すでにじり貧になっているからこそ、大ゴケをおそれて失敗できなくなり、であるがゆえにどんどんじり貧になるという悪いスパイラルに竿を指してくれるのは誰なのか。

むしろ、民衆に決断が求められている状況なのかもしれない。

さて、選んだ「ソレ」は、決断してくれますかねぇ?