知識と決断
会社の中で、上司や上役は、さまざまな情報を手にしたうえで、さて、この先どうしていくか、どちらに向かって進めていくかを判断し、組織をそちらへ動かしていく。場合によっては、「この部分の情報をもっと精緻に」と追加の指示を出して、その次の機会に、それらが提示された子をと受けて、判断し、こちらにこうして進めるぞという決断を下す。
まさに「決断を下す」というのが仕事であり、そのために必要な情報は何かな?この時には何を見ておかないといけない、考えておかないといけないかな?ということが、より多角的に、抜けなく検討できる、考えられる「知識」を持っていないといけない。
だが、日本の(少なくともこれまでの)教育においては、ほぼ知識ばかりが優先されていた気がする。これを覚えておきなさい、これを考えなさい。そうした頭でっかちになるのはいいのだが、決断はどこかで必ず下す必要性が出てくる。場合によっては、今は得られない情報があったとしても、腹をくくって決断せざるを得ない場面に遭遇する事さえある。そこで決められなければ、それはその人の責務を果たしていない事になる。
これが面白いところでもあるのだが、「決断」には「知識が欠かせない」のはある意味での事実だが、「知識がなければ必ずしも正しい決断ができない」と言うわけではない。この逆もあって、「知識や情報が正しく入っていれば、必ず正しい決断が下せる」と言うわけでもない。
もちろん、一般的には、より正しい情報を正しく判断できる知識があって、それに基づいてこそ正しい決断を下せる確率は上がるわけだ。が、そもそも昨今の日本において、この「決断」がブレブレであり、いつもいつもひっくり返したりする事ばかりして、お金も時間も無駄にしてしまっている事ばかりではないだろうか?
企業も、国も、いったん何らかの栄華を垣間見た組織や集合体は、失敗を恐れて決断できなくなるという事だろうか。失敗を恐れるがあまり、ずっとじり貧ですたれていくということを甘んじて受けなければならなくなっているのが今の日本ではなかろうか?
今回の選挙もそうだが、ことしもいくつかの選挙がある。すでにじり貧になっているからこそ、大ゴケをおそれて失敗できなくなり、であるがゆえにどんどんじり貧になるという悪いスパイラルに竿を指してくれるのは誰なのか。
むしろ、民衆に決断が求められている状況なのかもしれない。
さて、選んだ「ソレ」は、決断してくれますかねぇ?