くみ取るべき意図

学生時代、友人が塾講師などのバイトをやっていて、そいつがテストの採点をやっているのを、横眼で眺めながら見ていたことがある。

確か中学生のクラスのテストだったと思う。国語のテスト。問題文に「作者はどう考えているのか、次の4つの中から選べ」といった問題だったと思う。
もちろん、長めの問題文があり、それを読んだ前提としての問題なのだけれど、すでに選択肢の4つを読むだけで答えが見えてきたりする。これ、どう考えたって、これじゃん!…と、すでに中学を経て来た観点からは明らか。いわゆる出題者の意図が、その選択肢の設計のところに透けて見えてくるのだ。

しかし受験テクニックに長けた中学生ならまだしも、まだまだウブな中学生なら、ついつい「文章の作者」の意図を考えようとする。そして何度か問題文を読み込もうとする。すでにそこに誤解が生じ始めていることに気付くには、何年かかかるのかもしれない。

たぶんそれは、「作者」の意図をくみ取るよりも、「出題者」の意図をくみ取るべきなのだ。その視点で見始めた瞬間、選択肢の見え方が変わる。…が、それに気づくことこそが、人生経験を積んできた、という事なのかもしれない。

 

ーーー

 

仕事をしていると、いろんな思惑の人が、いろんな意見を言ってくる。これらに惑わされ始めると、途端に作業量が増えることになる。なので、「誰の意図を重点的に組むべきか」は最重要課題。そもそも、最悪の場合においては、組むべき最重要人物とのコミュニケーションがなされていない…などといった状況すら生まれえる。それに対して、ついつい身近な声や意見を優先したりすると、結果として仕事の評価は上がらないことにも。

なので、上司の、会社の意図をくむべきなのか、はたまた顧客の意図を組むべきか。バランスこそ取るものの、どちらかしか、というのはあり得ない。

 

結果的には、中学生とあまり変わっていないのかも。要するに、周りをきちんと見て、現状をとらえ、キーパーソンを認識せよという事に他ならないのか。

 

修業は続くよ、どこまでも。

 

 

お金という道具

お金、通貨、なぜこれが使えるか分かる?と質問が投げかけられる。

それはね、使っている人みんなが、「これが使えると信じている」から使えるの、というのが現状の答えらしい。その意味では大変危うい、でもそう簡単には壊れないかもしれないシステム。

 

私は経済学として専門で学習したことはない。なので網羅性の高いことは言えないのだけれど、現行の現金と言う貨幣の特徴として、流通性と匿名性という特徴があるらしい。

流通している。みんなが使っているからどこでも使える、それは一部地域に限らず(現地通貨に交換してくれるシステムがあれば)事実上世界中どこでも使える。この使えることが重要なのはよくわかる。これは国内であっても、緊急時、災害時、モノが足りなくなった時を考えてみれば想像できる。お金があっても意味を持たない、誰も欲しいものと交換してくれないのなら、お金自身に価値はない。

 

もう一つ、匿名性。現金で使ったことによって、そこには名前はくっついていかない。誰が使ったのかは、お札や硬貨だけを見たところで判別できない事が重要らしい。

 

しかしこれらも、「日本銀行券」のように偽札が作りにくいものならともかく、世界はすでに「偽札」がかなり横行し始めている通貨も現存する。となると、誰が使ったかも追いかけたくなるのが現実。実際のところ、すでに今の「日本銀行券」であろうと、お札のナンバーがある程度トレースできるらしい。現金であっても追いかけることは不可能ではなくなるのも時間の問題かもしれない。

 

そもそも、現金を使う際には「顔」を見て、こいつ偽札を使わないよなという信頼が、心のどこかにあるはずだ。日本のお札は作りにくいから信頼しているという事もあり、さらにそれに、その人の外見、容姿、態度で判断しているという信頼があっての上での通貨。

 

とは言え、他方で今の日本においては、「プライバシー情報」に対して、非常に過剰に反応する人々がいる。だが考えても見てほしい。完全にプライバシー情報を隠蔽してしまって、その人固有のサービスを受けられるはずはないではないか。その人の特性(どの地域でよく利用する、どのサービスをよく利用する)が見えてくるからこそ、それに応じたクーポンも出せるし、得意客であればそれに応じた割引サービスも提供できる。これはプライバシーとして行動が筒抜けになる事とのトレードオフに他ならない。

 

お金という道具がなくなる世界は、今の経済の回り方が続く以上、もうあり得ない。となると、お金、それはお札や硬貨といった形あるモノであろうと、情報としての電子マネーであろうと、これなしに生活は回らない。どこにバランスを置いて、誰にどのような情報を提供しながら、誰にどもメリットをどのくらい還元しながら使える道具にするのか?という、壮大な国規模の、そして地球規模の実験を、たぶんこれから数十年かけて実施し、落としどころを探っていくことになるんだろう。

だってすでにそうじゃないですか。あなただって、〇〇ポイントカード、使ってるんでしょ?その規約に、情報をある程度の匿名化で売買するよって書いてあったりしませんか?

 

 

人々が成し遂げたいことは

一部の世界はそうでもないのかもしれないが、全世界的に見て、あまり景況感が良い感じはしていない。どこかの地域が良い分だけ、どこかの地域が悪いこともよくある事。

もちろん、天候不順や天変地異の影響もあり、経済はそれぞれに浮き沈みがあるのは当然の事。

 

国内だけを見てみると、もはや使い古された言葉としてのバブル崩壊以後のうん十年という言葉が躍る。1995年以降に社会に出てきたであろう世代のこの少なくとも20年というのは、日本においては、物価が変動しない社会、もしくは、物価が下がる社会として認識されている事だろう。これは別の言葉で言いかえれば、給料が上がらない社会、伸びない社会でもある。

だからこそ、デフレは悪だと喧伝されるわけであり、景気浮揚が叫ばれる。これほど変わらない、安定的な事、という捉え方もあるはずなのに。

 

そのための一つとして、「みんなの懐が寂しいから購買意欲が低い。だからより安く、そしてより良い商品、サービスを作っていかなくては」というのが、どこの現場でもお題目として挙がっているところだろう。

 

そのために、従業員の多くはギュウギュウに仕事を詰め込み、自分の効率をマックスにまで上げようと、上げさせようとする。今まで自分の中にあったちょっとした余剰、余裕はすべて吐き出せ。その分少しでも効率をあげろ!と指示が飛ぶ。

 

しかしそれによって生まれている現状の雰囲気はどういう状況なのか?ほぼすべての人に余裕がないことで、隣で困っている人がいたとしても、自分の事で精一杯で、その人の事を助けられないでいる人、助けたくてももうその気力すら搾り取られている人が多くはないだろうか?以前なら多少の余裕がある人がいて、ちょっと手を差し伸べていたような人がいたはず。でももう仕事でへとへとになってしまっていては、その手が差し伸べられない。これによって、何かあちこちで不協和音、不具合、効率が落ちていないだろうか?

 

そう、結果として「個々の余裕を取り去ってしまった」事によって、「全体としての効率が、大きく低下」しているのではないかという事。要するに、「個々の効率を上げる」事で、「全体効率が下がっていないか」、やりたいのはどっちだ?という事。

 

そもそも、景気を浮揚させたい、皆で助け合える、よりよい構造を作り上げたいという事が掲げられていたのではないか?しかしそのために、「個々の余裕をほぼすべて仕事だけに向ける」ことで上がった生産性と、「余裕が奪われたことによる社会のギスギス感での効率の悪さ、雰囲気の悪さ」は、メリットがデメリットを上回っているのだろうか?

 

デメリットがまったくない行動、活動はあり得ない。なのでデメリットが生まれること自体は仕方がない。だが、生まれたメリットよりもデメリットの方が多ければ、それは「間違った施策」ではないのか。

 

しかしたぶん、こんなBlogやネットの片隅の文書で何かが変わるとは思えない。それを「測る」基準もなく、「目に見える形」にする方法は、たぶん経済学者等々がとっくに議論しているはずだとかまびすしいことおびただしい。

要は、先日の台風のごとく、庶民は、自分の頭の上を過ぎ去るのを、じっと耐えて待つことくらいしか方法はないのだろうか。政治家は、自分の政党が勝つ事に目が行きすぎていないか?

未来は誰に託せばいいのだろうか…。

 

教えるべきこと、学ぶべきこと、最適化

無人島に男が漂流した。それを見つけた神が彼に施すべきは、「魚(食料)」か、「魚の取り方(食料の獲得の仕方)」か。

 

もしも前者(食料)を施すならば、それは今後もずっと、彼に施し続ける必要が出てくる。だが後者(食料の獲得の仕方)なら、一度学べば、うまく行けば今後ずっと彼は自立して生き続けることができる。そして多くの場合、それを「教育」と称することがある。

 

ただ、「教育」とは得てして高度な知的知識を必要とする。そのための前提として覚えるべきことも出てくる。この「覚えるべきこと」と、そうして覚えた基礎知識を利用した「考え方」を意識していない/できていない、もったいない人がいる。

そんな人の多くは、とにかく全部を「覚えよう」としがちだ。そしてそういう人の多くが、記憶することは得意だったりもする。

だが、覚えることはいいとしても、それをいかに応用するかが苦手であっては仕方がない。場面によって、「あぁ、これは前のあれと似ているから、おなじようにすればいいかな?」とふるまえるかどうかで、覚えたことが「応用できる」に変化していく。そう、考えなければならないのだ。

 

実はコンピューターの初期AIは、まずは知識ベースを増やすこと、すべてを覚えさせようとするところから始まった。が、当然ながら、それらはすぐに行き詰る。なぜなら「すべての生じうるパターンを覚えさせなければ、ほんの少し違う場合であったとしても、それには対処できない」事になるからだ。

 

そこを脱却して、同じような事をを同じような事だと認識し、それに過去パターンを当てはめることができ始めたのが、その次の世代。それとコンピューターの能力が向上したことによって、結果、将棋や囲碁で勝てるほどにまでコンピューターが成長した。似た状況を似た状況として、同じように振る舞うことが許容できるようになってきた。だからAIは、「すべてを知っている」のではなく、「過去パターンから想像できるところ」に向けて進化しているということ。

 

だからこそ、我々人間ももちろん、「言われたこと」だけでなく、それを「応用」できる状況にしていく必要がある。そのためには、その状況をとらえ、考え、それに最適な過去経験を適応していく必要がある。

ただ、人間の身体に持つコンピューターたる「脳」は、ある意味で優れた処理能力を示すのだけれど、別の意味では能力低下も激しい。疲れたり、単純作業には比較的弱いし、強度のストレスにも弱かったりする。
昨今の労働環境を省みると、単純作業が増えたり、ストレスがきつかったりと、結果的にそもそも「脳」を効率的に使うという観点からは真逆の方向に動いていないか。

何をもって人は繁栄したいのか、どうすると効率がいいのか。今一度、個人の、組織の効率、パフォーマンスの観点から考え直してみたいんですけど。

 

 

 

 

タイトルの意味が変わってきていませんか

私が小さいころ、小学校4、5年のころの学習だったかと思う。新聞記事を読むといった学習内容があったように思う。

新聞の面の意味、1面と3面の意味の違いから始まり、一つの記事でも、大見出し、中見出し、小見出しがあり、そして本文があった上で、その中で、5W1H的に内容を整理して伝えているといった、「記事の構造」の理解が促される。

ざっくりととらえれば、キャッチーでほぼ瞬間に理解できる大見出し、それを補完する中見出し、それで満足できない人に一通り内容を伝える小見出し、詳細は記事本文で、といった構造。

 

でも、たぶんこれはネット時代になって、記事の書き方、意味合いが、微妙に変わりつつある事による気がしている。

 

その変化は、別に「ネット上」でのみ起きているとも思わない。

最近は、たぶんネットメディアに押されているのか、言及されているところを目にしないのだけれど、「東スポ」の売られ方がネタになっていた時期がある。

それはというと、大見出しのタイトルが、絶妙に気を引くタイトルになっていて、その「折り目の下」を見たくて売店に向かう人、何人かいたのではないだろうか?

結果としては、大した記事ではなく、タイトルの下の部分を見てみると、「?!」といったマークがついていて、気分的に「おいおい!」となることが少なくないのだけれど、それも含めて東スポだし、といった行為自体がネタになっていた。

 

それが今、ネット上の記事、それもみんなに見られるところにまとめられているような、Yahoo!や、はてぶといったところで使われる「タイトル」において、そういう「ネタタイトル」が先行し始めていないかということ。

すでにそこには「大見出し」としてのタイトルの意味はあまりなく、キャッチーな、人の目を引く、「おっ!ほんとうか!」と「目を引く」「心をひく」「意外性を感じる」タイトルが乱発する。
が、中身を読んでみると、いやいや大した記事じゃないとか、そもそも記事にするほどの内容も無いような記事になっている。

 

これの真意はどこにあるのかと言うと、それは評価基準に集約されるのだろう。要は見られた数、ビューの数で記事が評価され、ひいては書いた記者が評価される。であるから、できるだけ見られやすいように、読者の気を引く、目を引くタイトルに工夫せざるを得ない。いくら良い記事でも凡庸なタイトルでは、そもそも目に留まらないし見られない。見られなければ評価されないという事。

 

まぁ昔から変わらないと言われればそうではあるのだけれど、その状況により読む側の能力、リテラシーが変化せざるを得ないということにつながってくる。が、歳を経てもう変化に対応できない人、そもそもリテラシーなんてことを意識したことがない人、まだ小さな子供などにおいては、そうした個人で意識改革を起こす考えすら出てこないかもしれず、結果としてメディアに先導されかねない事に。

 

時代は動く。メディアは動く。

メディアはメッセージなのだから、それが発している内容を、如何に捕らえるか?現実はというと、メッセージとして意識しないほどに浸透してしまう事の恐ろしさを垣間見ている気がしてならない。

 

…と書いている、自分も、意識できていない事がきっとたくさんあって。

だから、意識できていない事を意識しなければいけない…という矛盾があって…。