二択と三択

選択肢が二つある事と、三つ以上ある事には、根本的な違いが出てくる。

 

二者択一の場合、「こちらを選びたい」はよいのだけれど、どちらもちょっとズレていて違う場合、結果として「こちらは選びたくない」という結果の下に、残った方として選ぶ方を決める、要は「嫌いな方を決める」事だけ、選びたい方を決めることなく決まることがある。

 

だが三つ以上ある場合、「何か一つを嫌いだ」と決めても、残り二つに絞り込まれただけで決まらない。結果、「嫌いのランキング」を決めるという事で選ぶことにもなるのだけれど、それは逆から考えれば、ありものの中における「好きのランキング」を決めた事でもある。

 

昨今、「これが好きだから」と選んでいるものがどのくらいあるだろう。多くのモノが「嫌いじゃない方」という選択になっていないだろうか?

個人の嗜好においては、もう一つ別の考え方、ハズレが無い方という意味で、いつものやつ、というやり方もありますか。

 

好きなものランキングで生活できるという事自体が、もしかすると理想郷すぎるのかもしれないけれど、一度はそうした世界で、モノやコトを選んでみたい気もする。特に政治や、国の将来、自分たちの、そして子供達の未来について、ありたい方向としてえらびたくて、消去法で作りたく無いんですけど、ね。

 

できるから、できないから

1) それしかできないから、それ以外の選択肢がなく、仕方なくそうしている人…もいる。

2) それ以外にもできるけれど、でも、それが楽だったり、好きだったりするから、そうしている人…もいる。

 

外見で判断する、ということは、上記の二種類1)2)を、結果として同じだと見るという事。でも実態としては、選択肢があった上でそちらを選んだのか、そもそも選択の余地なくそちらを選ばざるを得なかったのかという違いがある。

 

選んでそうなったものというのは、それはそれで、「選んだ時点」であなたが選んだという責務を負っているという事。でも、選ぶ選択肢がなく、そもそもそれしかなかったというのは、自分ではどうしようもなかったという事。

 

地方都市で昼食をとる場合。他に飯屋は存在しておらず、この店しかないといった状況だったり、もっと他のものが食べたいけれど、カレーかラーメンしかまともな食事が提供されていなかったり。

まともな選択肢がないという事ほど悲しいことはない。が、選択肢が提供できているというのは、ある意味それにかんして「豊かな」状況でもあるという事。

 

選択肢。それを準備できるだけの土壌と、器量と、お金と、時間等々、様々なリソースプールがあってこその豊かさ。すべてが選択肢になりうるわけではなく、全体のごく一部が選択肢として提供されうるためには、提供されうる母集団の数が多い、大きいことが重要になる。

 

今、日本の人口は減少しつつある。高齢化となり、就労人口の割合が下がりつつある。結果、活躍できるという母集団が小さくなりつつある。その意味で「豊かな土壌」が貧しい状況に急速に陥りつつあるという状況にある。

 

今月は選挙があるらしい。それも、政権選択選挙になるらしい。

 

 

ケータイがスマホになって

何年か前、ケータイが普及したことにより、私の友人でこういう人が増えた。

もう腕時計は必要ない。これで腕が軽くなった、と。

 

でも現在、スマホが進化し、そしてAppleWatchが進化し始めて、再び「腕時計」を購入したいという人が増えているような気がする。
彼らは言う。スマホは置き忘れるでしょ、それが代替できるなら腕時計で。

 

なんだ、腕時計って邪魔じゃなかったの?
もちろん、全員同じ人がつけなおしているわけではない。だがたぶんもうこのあたりが小型化、そして生活形態の変化としての現状、デバイスとしての極小ポイントのような気がしている。複数の機能をどのように身に着けるのか?時計と、写真と、コミュニケーションと…。腕と、耳と、たぶんこれからは眼鏡あたりに配分されていく(個人的には、首回りもあると思っている)。そしてそれらが単なる「デバイス」という枠を超え、ファッションの域に入り始めるのだろう。だがどれだけ家電メーカー、ITメーカーにその意識が入っているか。まぁすでにその意識を持っているところは、そうした業界のヘッドハントを終えているはずですがね。

 

さらにその先に行こうとするなら、それはたぶん、体内に埋め込む方向に向かわざるを得なくなるだろう。すでに会社IDを体内に埋め込んでいる超先進的会社も現れていることがニュースになっていた。

 

結果、個人が特定され、記号が打たれ、超リアルタイムではなくとも、動きや経済活動はそもそもすべて紐づけされる方向に動かざるを得ないということか。

 

ブラック企業が減るために

もうすっかり定着してしまっている「ブラック企業」という言葉。これは単なる違法企業という意味だけではない。いわゆる上場企業であったとしても、「ブラック」な仕事のさせ方をしていればどこでも起きうる状況として、昨今はかなり皆さんの意識に浸透しているのではないだろうか。だから、大きい企業だから大丈夫とか、小さい企業だから危ない…といった認識とは、完全に別の軸で語られるべきもの。

 

もしブラックな働かされ方に気が付いたならば、そこから逃げればいいじゃないか…と言う人もいる。いや、それに気づいたときには、そもそも逃げるだけの気力すら奪い取られている状況で、逃げること自身が難しくなっているという意見もある。

 

そもそも多くの場合、ブラックな働かされ方は、人の好さや責任感の高さに「付け込んで」実施されていることが多い。であるがゆえに、適度に楽天家、適度にいい加減な方は、ふんわりとそれを避けることができていたりする。

 

とは言え、だれもがブラックな状況は避けたい。これはどうすれば起きえるのか?

その一つは明白だ。それは「景気が良く」なること、さらに言及するなら、そんな中において人材流動性が高まれば、人はブラックな会社に居続ける必要などなくなるだろう。

すでに、人材不足があちこちの職種でうたわれ始めている。が、残念なことに、それに応じた「給与水準の上昇」が起きていないことで、流動化現象はまだ弱含みに見える。

当たり前だが、さらに人を取りたければ、魅力的な提示が必要になるはず。結果的にそれは、雇用する側、される側でのチキンレースで、どちらがどれだけ我慢するか?賃金をあげるか?仕事を提供するか?といった状況になっているが、情勢的には、雇用される側に有利な方向に展開しているだろう。

 

そしてそれこそが、「景気が上昇する」という方向性。

すでに多くの企業がそうなりつつあるが、中途採用に、もう年齢の壁は事実上ない。

終身雇用など事実上存在していない。

逆に言えば、実力さえあれば、年齢に関係なくどこでも働く機会が提供され始めているという事。新人でも新人なりの実力を見せろと言われてき始めていること。

そして最も重要なのは、この機をとらえるために、取り残されないために、「労働者側」が、それを機会としてとらえる意識をきちんと持つことなのではないだろうか。今までの残渣では通用しなくなりつつある時代。だからこそブラック企業は、労働者側の、「他でも働ける力があるのだ、私には」という意識でこそ、撲滅できるのではないかと思っている。

だからあなたも、ね(笑)。

キャリアプラン

サッカー選手で、すごいストライカーだの、すごいミッドフィルダーだのと成果をあげていたとしても、はい、では次期監督をお願いしますね…とはいかないようで。

それにはちゃんと監督としてのトレーニングを受け、資格を取って、その上で監督業に着くというのは、ある意味正当なキャリアプランに見える。

 

他方で同じスポーツでも、名選手だったから…と監督要請するなどと言う話を聞くのが日本の野球界ではないだろうか。選手時代にあれだけの功績をあげたのだから…と、選手上がりで(すぐに来年から…ではないにせよ)監督に就任したりする。

もちろん、それで成果を出せる人もいるのだろう。だが、こういう言葉もある。名選手必ずしも名監督ならず。天性の持つものを持って名選手として名をあげた選手であればあるほど、当人には天賦の才としてすんなりできたことが、監督となった今、どうして現場の選手達にそれができないのかが分からなかったりする。自分が現役のころには思ったとおりに身体が動いていたので、それを「誰かに伝える」という事をそれまで意識できていなくて、選手に伝わらなかったり。要は何がわからないかがわからず、と、どう伝えたらいいかがわからず。
逆に、選手時代にはさほど目立った成績を上げていなかった人でも、自分が当時分からなかった、努力してきたところを、教える力、考える力を持って監督やコーチになることによって、大きくそのチームを育て上げるのに貢献する人もいる。

 

やっぱりその組織組織における、「そのポジションに必要な実力」というのは、下のポジションでうまくできたから…というのとは、少し違うところがあるのではないかという気がしている。「それ」がその役目の仕事。だから、極端な場合、下積み時代に実力が発揮できていなくても、いきなりまとめ役になった瞬間に実績を生み出すものが出ることもあり得るだろう。

 

日本においては、まだまだ新卒が大量採用される慣習がある。いわば年功序列が残り続けている。そんななかで、就職し、エンジニアとして育っていったその先は、マネジメントなのか?というのがどうも引っかかるのだ。

もっと言えば、「技術を突き詰めた先のキャリア」が、日本の中では「マネジメント」という形にならざるを得ない事に、非常に違和感を感じている。
もちろん、会社によってはそのあたりをいろいろ考えて、さまざまな社内でのタイトルを用意しているところもあるのかもしれないが、それでもその会社を離れてしまえばそれまでという事が多い。

 

結果、「日本の会社」という中において、エンジニアが軽んじられている、その実力を正当に評価できないでいること自体が、結果的に正しい地位、権利、報酬を得られない根源になっているのではないだろうか?
もちろん、これまでにも素晴らしい実力を打ち立ててきた日本のエンジニアたちは枚挙にいとまがない。が、彼らが億万長者になったなどと言う話はついぞ聞いたことはなく。海外であるならば(お金のみが評価ではないとは思うけれど)大きな報酬を得て、悠々自適に自分の興味の赴く方向で暮らしを立てているエンジニアの話を聞くこともあるのに。

 

エンジニアの良心に甘えていないか?それでこの先、「日本」という国は回していけるのか?そんな観点でも考えをめぐらしてくれる、技官や官僚は出てこないモノなのか。

この国はこの先、どうやって食べていくのかな。すでにマネジメントも後塵を配している会社はたくさんあり、技術も後追いだったりしたり。ふと気がつくと数年後に、何処かの国の下請け国になってやしないだろうか??