誰かに評価を求める前に

他人に評価を求めてばかりいると、どんどん辛くなりませんか?

そういう人の状態でよくあるのが、自分で自分が納得できていなかったり、自分自身を認められなかったり。だから周りに求めたくなる。

でも考えてみてくださいな。自分で自分が認められない(たぶん多くは自信がない人でしょう、きっと)に、だから認めてくださいと周りに、他人に求められたら?あなたが友人から、仕事仲間からそう求められたら、無条件で認められますか?
もちろん、そんな聖人君子みたいな人もいらっしゃるかもしれないけれど、たぶんそれほど数は多くないでしょう。

 

だからまず、人に求める前に、まず自分で自分を認めませんか?大きな事でなくていい。あぁ、今日も一日無事に過ごせた、でもいいと思うんですよ。

 

今多くの人が、「他人に認められている自分であることを持って、自分を認める」ということになっていませんか?それは自分(A)を信じられないから、誰か他人(B)を信じ、そのBにAを信じてほしいというまぁややこしい信頼の生み方になっている。

これ、Bがいなくなったり信じられなくなった瞬間に、(自分は変わっていなくても)自分の存在の基盤がなくなることに。

 

もちろん、昨今の仕事の環境、生活環境において、たぶん10年前、20年前に比べて、非常にストレス度合いが上がっているであろうことは想像に難くありません。もっと早くやれ、もっと効率よく、もっと価値観を…と、ストレスがかかる方向ばかりに。

ストレスはゼロにはできない。でも、本来不要なストレスは、たぶん減らせる方向性があるはず。

 

だから、ストレスが小さな「自分への自信」でまずは自分を確立する事。

いきなり「高層ビル」が建てられないのと同じように、最初は「平屋」から、そして「2階建て」、「3階建て」の自信を構築していって、徐々に大きな「自信」を構築し「自分自身」を確立する。

もっと言えば、仕事の評価とプライベートの評価は別物でも構わないのでは。

たとえ仕事でへこんでも、プライベートの自分は別の自分。

 

どこで自信を持つのか。どこで自身を確立するのか。仕事かもしれないし、プライベートかもしれないし、両方あればそれはそれですごい事。これほど多様性の広がる時代において、仕事で認められなくたって、たまたま悪い評価だって、生活できればいいじゃないですか、とりあえず。
もしかすると来年は、2年後は、そのへこんだ経験が役に立つときも来ますから。

 

すべてはつながっている。へこんだこと、「評価されなかったこと」をメリットにすることだってできるはず。失敗した経験がない人には、評価されなかった経験がない人には、その気持ちが分からないのだから。

 

配分

今時、何か新しい料理に挑戦しようかと思ったとたん、たぶん多くの方は、検索サイトで、「料理名、レシピ」と探すことだろう。昔なら料理本などを持っていなければ、そもそも何を準備してどう料理するかもわからなかったところが、今は手元で1分もかからず、これならできるかも…と機会が広がる。

 

たとえ、それが「こうすればできるよね」と分かっている料理であったとしても、その材料や調味料の配合、配分具合で、おいしさに雲泥の差が出るのは皆さんご存知の事。カレー1つとったところでさえもちろんそうで。材料を炒めてルーを入れるだけ…と作られたものと、計算された配合量で、管理された調理時間で作られたものとでは、味や見栄えに大きな違いが出る。

 

仕事においても同様で、一人だけで実施する仕事ももちろんあるだろうけれど、何らかの形で、複数人で、チームで仕事をすることはよくある事。その際のチームメンバーに、うまく仕事が、役割が、責任が配分されているのはとても重要な事。

 

チームは、それぞれの個性が加わってチームになる。

ワンピースでも、ドラえもんでも、スタートレックでも、そのチームの中の各個性と役割の配分こそが、チームの妙味。それを40年以上やり続けているのがスーパー戦隊シリーズだったり。

 

特にリーダー格の者は、誰にそれを割り当てるのか?たんなる仕事の配分のみならず、役割の配分、キャラクターの配分など、そこまで意識できていると良いチームを生み出しやすくなり、そして、良い仕事結果を生み出しやすくなることにつながる。だから、ありもの、すでにいるメンバー、キャラクターで、どう対処していくのか。手札だけで戦うためのやくわりはいぶん、責任配分をいかに明確に周りのメンバーに意識してもらいながら、でも互いにフォローしあえる形にするのか。

二律背反するようで、両立させなければならないのが、大変であり、でもやりがいでもあったりするんですよね。

成長という敵

子供のころは、「大きくなったら…」と夢が広がった。ご飯を食べて、運動をして、勉強をしていれば、それだけで「成長」していったからだ。

成長という喜び。そう、当時は成長とは「喜び」の意味だったところがある。

 

だが成人も過ぎ、社会人として独り立ちし始めると、今度はその「成長」に苦しめられる。学生時代のように、飯を食って働くだけ…では成長しない。むしろ過去の資産を食いつぶしているにすぎず、成長するためには新しいことを学び続けなければならないというプレッシャーにさらされている。そうしなければ結果として自分の相対的は下がり、結果「成長しなければいけない」という苦しみにさいなまれることにもなる。

 

 

Googleが社内において、仕事時間のうち20%は仕事と違う事をしなさい、という情報がネットを駆け巡ったことがあった。これを聞いた仕事仲間が「いいなぁ、仕事以外のそんな時間が持てるなんて羨ましい」と言っていたが、私はこれはちょっと考え物だなぁと思ったものだ。

Googleほどであれば知っている。個々の成長無くして企業の成長はあり得ない。いかにして成長や、イノベーションを担保するか?だからそれを個人に「課して」、個人が「成長しなさい」とのメッセージと受け止めるべきではないのかと。

 

まだまだ日本の多くの企業はそこまではいかない。仕事の時間を割いてまで、新しいことを生み出す時間に使うよりも、今の仕事の効率を上げること、今の儲けをいかに増やすかに血道をあげている企業の方が大半だろう。
であるからこそ不安に思う。それほどにまで「現業」を効率化することで「今」は良い、が、これから3年後、5年後はどうするのかと?それを「個人」に委ねていたりしないか?企業としての戦略は無いのか?と。

 

ステマティックに、会社が、組織が、全体最適として機能し、新しい価値を生み出している事の意味と、それを個人にのみ委ねている企業と。

ある意味、今の企業の終焉の始まりすら感じざるを得ないと思うほどに。

 

分からない事はありませんか?

みんなの知識をあげていくために丁寧に説明しようとすると、どうしてもこの一言を言わざるを得なくなる。

分からない事はありませんか?

 

そもそもこんなことを言わずとも、これはどうなんですか?ここはどう考えればいいですか?と、自主的に質問してきてくれる人がいたりすれば、願ったりかなったり。(逆に、これを恐れているようでは、それはとうてい教えられるレベルではないという事だ。)

だがそれすら無く、誰も質問すらしないなら、みんなわかっているのか?

 

そもそも、自分から質問してくる人にはポイントが2つある。それは、「自分から聞いてみよう」という勇気。特に日本人の場合、なかなか自ら質問してこない。(これはこれで語りたいことはあるのだが、また別の機会に。)

もうひとつが実は肝心だ。それは、「自分はここが分かっていない」という事を認識できている事。

 

分からない人は、何がわかっていないかが分からない。だから厄介なのだ。

分からないことがなんなのかがわかっている人は、「それ」について質問できる。

でも、わからないことがわからなければ、どう質問すべきかも分からない。

なので、

「分からなければ聞いてください」

は、万人に対する質問ではなく、実は、この前提をクリアできた人で、でも分からないところがある人向けの質問に他ならない。

 あえて言えば、前提をクリアできていない人には、こう質問せざるを得ないかもしれない。

「何を聞けばいいかわからない人、もしくは、全く理解できない人はいませんか?」

 

こうなるとかなり深刻だ。ふつうそうした教えやクラスを設計する際には、このくらい説明すれば理解してくれる…と言う前提で設計されている。それに乗れなかった、レベルが合わず難しすぎたということ。

まぁこれは学校教育からして永遠の課題であり、個別指導でない限り完全に対応するのはなかなか難しいこと。

だがそれでも聞かなければならないのは、「わからない事はありませんか?」だろう。

 

こここそが、どうすればいいかわからないところなんだけれど、満点の解がないところが悩みどころ、という事か。

 

表があるのは裏があるから

何かがあれば、「自分たちにとっては」メリットしかない事であったとしても、必ずそれによる都合の悪い影響を受ける誰か/何かが存在する。

表があるのは裏が存在するからで、メリットがあるところには、何等かのデメリットが必ず存在している。

 

時に、「いや、いくら考えてもメリットしか見えない」という事もないではない。が、そういう時には、それは今の自分たちの知識や能力では気づくことのできないデメリットがどこかに存在していると悟った方が良い。「気付けていないことの存在」にこそ気付くことが重要でしょう?という事。

 

であるからこそ、物事を変革する、変えていくことには慎重に。特に、「デメリットが見えない」時ほど危ない時は無い。逆に言えば「デメリットがはっきりと見えているとき」は、まだましなのだ。それだけ全体に、俯瞰的に視野を持てているという事実。
しかしデメリットがいくら探しても見当たらないときは、それこそ気づけていない何かが存在することを示しているはず。だからこそ慎重になるべき。実は破壊的マイナスの影響が何処かにある可能性が高いかもという事。

 

メリットとデメリット。自分にとってはメリットかもしれないが、では「誰」にとってはデメリットなのか。そしてそれは話し合えるのか?妥協点が探せるのか?

結果的に、今起こっている問題の多くは、気づけなかったデメリットに対する補償と是正の戦いではないのか?

 

…でもね、そうして考えが深い/広い人ほど苦労する。だって迷惑をかける先が見えるのだから。と分かれば、先に手を打たなければ、対処しなければ、とどんどん大変に。

って形で、適度に目を瞑る人、適度なバカでないと、大変な目を見るんだよなぁ。