話す、書く、行動する

リーダーシップをはれる人には何種類かあるらしい。いろんな分類の仕方があるようだが、今回はこう分けてみた。

 

書く人・書かない人

話す人・話さない人

行動する人・行動しない人

 

この3つの組み合わせだから、当然 2 x 2 x 2通りで8通りの人がいることになる。何もしない人はおいておくとすると、実質7通りか。

 

a) 行動だけする人

これは、周りの人から見ると不思議に見える。行動から目的などが推察できることもなくはないが、普通「ちょっと説明しろよ」と思われることが多く、人々を先導するにはむつかしかったり、非常に時間がかかるのが常。

 

b) 話だけする人

現場では嫌われる。言うだけ言うし、たぶんそれは間違っていない。が、行動が伴わないのは、今の現場では好かれない。率先して動けよ…と思われることが少なくない。

 

c) 文書だけ作る人

何でもきっかりと記録を取る人。重宝される。が、なかなか人を先導するには至らない。人々に向けてアピールする力に弱い。だから参謀的、リーダー補佐的位置づけが似合う人物だろう。

 

d) 話して行動する人

昨今の多くの現場でリーダーを張っている人。だがこの人の場合、まさに入っていない「書くこと」、すなわち記録に残すところが弱い。上記のc)の人とペアになると、ある意味最強の布陣になる可能性は無くはない。

 

e) 書いて行動する人

一見、上記a)に見られがちだが、きちんと書面に残すところから、理解はされやすくなる。ただ、アピールとしての書面はやはり周知徹底などの力は弱い。

 

f) 話して書くだけの人

これはb)の人とポジション的に変わらず、一見すると「書く」という手を動かしているところから、当人は「動いているつもり」になるが、周りから見ると動けていない事に他ならない。

 

g) 話して書いて行動する人

結局これが現場リーダーに求められる。話し、記録し、率先して行動する。だが工数がひっ迫している現場においては、どれかがおろそかになりがちで、であるがゆえになかなか思うように現場が走り出してくれない事が少なくない。
結果的に、上記に書いたc) + d)のペアが、このg)をしのぐ形にならざるを得ない現場が少なくない。

 

 

こう書いてみると、やはり現場が求めるものは「スーパーマン」がほとんどで、でそれになりきれずに苦労している人、俺はできないと悩んでいる人が多くいる。

…が、それはほとんど無理だから。だからできないからと言って悩む必要はない。むしろ、その自分が足りていない部分を補完してくれる人がどんな人なのかを意識し、それに見合う人を抜擢してそばに置くことができている人が、救われているのではないだろうか?

自分一人で抱え込むのではなく、周りに解を見出そうではないですか。

 

対価の概念

時々こういう人がいる。

それ便利だね?無料?ただ?無料は無いの?

 

なんでも無料とか、ただとか、安ければいいという人がいる。もちろん、無料である事が一つの価値でもあるので、むげには否定したくはない。が、多くの場合そう問いかける人の多くは、価値そのものが見えていない、相対的に自分自身の対価も意識できていない人が多いのではないか?と想像している。

 

時にひどい人もいて、手伝ってもらうときには「ただで」と無料を示唆するのに、別件でその人本人に手伝ってもらおうとすると、「じゃあこれこれで」と結構な価格を提示したりする。要するに「自分は偉い人、それ以外の人は眼中にない」という典型でもある。こういう人はたぶん「本当の友達」にはならない事がほとんどなので、静かにサヨナラしている。

 

ただ、単価と言っても様々な価格がある。スキルに対する価格。人が動くだけで発生する時間単価。その他にもコネ、知り合いも貴重な価値で、それらが相まっての価値/価格になるはずだ。

もしも感覚がつかめないのなら、時給1000円の人がこの作業をするとすると、持っている知識に対する単価、手先の器用さに対する単価、作業時間単価…というのを考え始めた瞬間に、瞬く間にかなりの値段になるのが想像できる事だろう。要するに世間は、それくらい高い価格をベースに、「互いに」回している世界が今の社会だという事。これを、自分だけは特別で、自分には無料で奉仕される…と思った瞬間、それは自分の仕事や時給を意識できていない、していないことを露呈させることにつながるのは当然だろう。

だからね、一見無料に見えるものには何らかのカラクリがあり、それを想像する、想いを馳せるクセをつけたほうがいいのかなと思うのですよ。

 

ということで、あなたが自分で「それ」を引き受けるなら、いくらもらいたいっすか?

成長と変化

もうかなり昔になるが、私は当時、私に与えられた仕事で、「もう一生これだけでいいかも」と守りのイメージを抱いたことがある。

 

結果どうなったかと言うと、とうぜんそんな仕事が定年までの何十年に至るまで継続され続けるわけもなく、長くて数年、場合によっては数か月で内容は切り替わる現実。

 

人によって違いはあるのかもしれないが、「与えられたもの」に対して、自分でそこにおける工夫をして広げていくことが得意な人と、与えられるものよりも「自分がしたい何か」があって、それをどんどんと押し広げていくのが得意な人、があるような気がしている。

 

特に、経済が感覚上なかなか発展していない現状の日本(世界?)において、企業が求めているのは、なんとか今の仕事を広げてくれる人。現状維持をしていける人は、正直言って求められていない。言葉を変えれば、微々たる量であったとしても、成長してくれる人こそが望まれているという事。

 

世界の中で、あなただけが仕事をしていて、周りはまったく変化がないのなら、もしかすると成長は必要ないかもしれない。だが現実それはあり得ない話で、周りも変化し続けている(当たり前)。それにより事実上、「立ち止まっている」ことは、「取り残されている事」であり、「現状維持」をするためには、時代のスピードで「走り続ける/成長し続ける」必要が出てくる。

 

そしてこれが大きな勘所だったりするけれど、成長と言うのは、それが「感じられる」ためには多少の時間がかかるという事。裏を返せば、「感じられるほどの成長」が見えてきたときには、すでに大きな差ができているという事。であるため、その人が努力を行い続けるならば、その差はよほどのことがない限り埋まらない、アドバンテージとなってその人の宝になるという事。

 

 

何事も、目に見えるまで頑張ろうよ、大変なんだけど、ね。

処遇

先日、ある会社で働いている人と二人で飲む機会があり、かなり深い話になった。

 

これまで会社を引っ張って行っていた人たち、その人の上司たちが、そろそろ役職定年になる/なったらしい。まぁ最近よく聞く話だ。

だが問題はここから。役職定年になった後にもそこで働き続けるなら、給与は当然ながらがっくりと下がる。社員階級レベルがいったんリセットされ、一番下から開始されるらしい。となると、基本月給20万程度。年収240万。それにプラスして多少のボーナスだそうだ。

これまで役職のついていた人からすると、たぶん、1/5、1/6レベルの給与レベル。人に依っては軽く1千万を超えていた管理職クラスもいる事だろう。

もちろん、その人たちは「偶然」その地位に就いたのではなく、実力をもってしてその会社の中で認められたものであり、まず間違いなく、管理職として相当の実力を持っている人。それがある日、誕生日とともに給与レベルとして奈落の底に突き落とされる。能力はほぼそのままで。

 

…であるため、即刻会社を辞めて他の企業に再就職する人もいる。こういう人は問題ない。自分の人生を自分でバリバリ切り開く人だ。

そうではない人もいる。一応再就職支援の制度に乗って、それだと上記の240万+ボーナス。今更ゼロから探すリスクも大変だし、背負えないし、それでいいと満足する人がいる。

 

誕生日を迎えたことで、いきなり才能がリセットされるわけではない。知識がリセットされるわけではない。が、この「急激な」降格はなんなのだろうか?

百歩譲って、「俺は良いから」と満足している当人は良いとして、それをはたから見ている他の社員において、モチベーションになるだろうか?

いくら頑張ったとしても、年齢でこうしてリセットさせられる。なにかそれまでの知識を優遇するでもなく、貢献を見据えるでもなく、あるレベルから下を「チョキン」と切り取るように、切り離す。

 

すべて、好景気ではないのが原因だ…と言われればそれまでかもしれない。が、そもそもこのような会社員の仕組み、年金の仕組み、退職金の仕組みなど、ここ100年も日本で続いていない仕組みの上でのはなし。それに翻弄されて人生は過ぎていく。

 

そう考えると結局いつも結論は、自分の楽しみ/自分がなりたい何かを、きちんと自分が意識できているか/それに向かえているのか?自分自身での満足が意識できているならば、何も周りに振り回されることはない。

でも、それでも処遇は気になる。

要するにやっていることは、労働人口も減少している中、ジリ貧方向でしかないというのが無策感を表しているのだけれど。

 

最後まで、一つも失敗しなかった人が成功になる仕組み、日本。

それでいいのかね?

 

一人からチームへ

一人で仕事をこなせる有能な人も結構いる。なんでも呑み込みが早く、理解力が卓越しており、どんどんと仕事をこなす。

それを見据えて、なら今度はチームを率いてくれないかと数人メンバーをつけたりする。

二人位メンバーをつけて、当人含め三人のチーム。場合によってはこれもうまく回せるものもいる。だがここで躓く人もいる。(a)

さらに三人チームをうまく回せれば、五人、十人と大きなチームを任せる。と、これもうまく回せるものもいるが、ここで躓く人もいる。(b)

 

(a)のケースの場合において、うまく回せている者は二通り。すべてを口頭で説明したりメンバーに納得してもらったりする形ですすめて回せる人。それに対して、口頭のみならず、多少の説明の資料を作る人もいる。後者はこのどちらもうまく回せる可能性が高いが、前者は、次の(b)になった際に躓く傾向が高い。

 

何がいいたいのかと言うと、できる人であるほど、物事や必要な情報、行動が、当人の中において整理できているのは良いのだけれど、それをどのように「他人に伝える」という形に置き換え、情報を、周りが納得しやすい形でアウトプットできるか?という事。

 

最近はこれを一言で「コミュニケーション力」と呼ぶけれど、そのコミュニケーションによって、どのような情報を、どのような形で見せる、理解させる、納得させるか?が根幹になる。

これ、もちろん生まれつきそのようなスキルを持つものもいるのだろうけれど、たぶん、教育の中において、その役割、手法を身に着けて来たか来なかったかが非常に大きいと実感している。

…が、あきらめる事は無い。こうしたスキルは「スキル」であるがゆえに学ぶこと、学習することができるもの。だけれどその認識に至れていない人が、自分のステージをあげることができずに苦しんでいたりするのを見ると、もったいないなぁとも思ってしまう。たぶんそうしたことを学べる事自体に気付いていないという事なのかもしれない。

 

これも情弱と呼ぶのかな。