決定権の所在は

昨今の強力な台風の連続急襲によって、日本の鉄道会社の決断が気になっている。早々に、被害が出る前に、被害による遅延、さらには急激な帰宅ラッシュを回避するために、かなりの間引き運転や、運休を行いますと宣言する。これはこれで一つの解だろう。たぶん、それによって多くのほかの会社勤めの人間は、
「鉄道が運行しないのに、会社に行けないでしょ」
と常識のトリガーが引かれ、会社事態もよほどの緊急状況、急ぎ仕事でもない限り早帰りや休みになることが当然のこととなって行けば良いと思っている。社会システムの一部がそうなることで、そのほかの会社が「俺の責任じゃなくて…」と言い訳して休みにできるのが、何とも日本らしいというか、ある意味あきれた行動なのだが、結果としては正しい方向に向かっていると信じたい。

 

ただ、すべての企業や組織で、そうした決断、仕組み、手続き等々が、うまく回っているとは思えない。こんな場面はあるんではないだろうか。

「で、それ誰が判断するの?」

そもそも決断者が決まってなければいけない事。そしてそういうことが決まっていない職場ほど、本来決断できる、決断すべき人は忙しいもの。であるがゆえに、「その時」になって、現場で判断できない事がわかっても、そもそも決断できる人が忙しすぎて、そのタイミングでの決断ができない事が多々ある。…となってしまってからでは遅い。

先回りしてその時にはどうするのか?誰が判断するのか?責任者を決めるなり、権限委譲するなり、想定したマニュアル、手順を作るのが一般的だろう。

 

今回の台風を教訓に、事前に対策を打つこと。ほら、遠い未来じゃなくて、今週末にもまた来るらしいですから(笑)。

 

課金してますか?

ケータイコンテンツのガチャがとくに有名だけれど、あなたは課金していますか?

別にケータイのガチャのみならず、SpotifyNetflixAmazonプライム等々、様々な課金サービスを利用していますか?もっと言えば、それで満足していますか?

 

日本の課金システムは、大きく2つのタイプ、都度課金と年額/月額などでの定額性のものがあって、都度課金はその都度「そのこと」にお金をかけるもの、定額は年や月額一定料金で「それら様々を使っても使わなくても」お金をかけるもの。

であるからこそ、そのサービスを使い倒している人にとっては、都度課金よりも定額制のほうが嬉しいことに。なので、SpotifyとかNetflixなどのコンテンツを見聞きしている人はもちろん、Amazonプライムで映画や過去のテレビ作品(に限らないけど)をたくさん見たい人にはうれしいサービスに。

 

これまでの日本には、なかなかこうした「コンテンツに課金サービス」ってなじみにくくて。なのでかつて大手を振ってそうした課金(それも都度課金)サービスとして成り立っていたのは、レコードやCD、そしてビデオレンタルあたりから。でもこれらはすでに、上記のネットを通じた定額課金サービスに置き換えられ始めている現状があって、都度課金はなかなか厳しい状況に。そもそも「コンテンツを購入して(見かけ上ではあれ)所有する」という事から、必要な時に見聞きする、という利用するビジネスモデルに変わりつつあることに、ユーザーが慣れ始めているのが昨今。

 

じゃあ逆に、「今はそうなっていないけれど、課金できると嬉しいサービス」ってありますか?課金してでもサービスを受けたいものは何ですか?都会で言えば、徐々に普及が始まりそうな、通勤電車の指定席化。あまりに混雑する朝夕の列車は、せめて座っていきたいという人は少なからずとも存在するだろう。

もしかすると、地方の席のすいているカフェは別だけれど、都会の込み合ったカフェにおいては、お金を払ってでも静かな場所、時間を確保したい…という人もいるかもしれない。ただこれは現状では、カフェのグレード化的な形で、ホテルのラウンジなどがその役目を果たしている気もする。

 

結局課金で何を買っているのか?それは、「その人のその時間をどのように使うか」を購入しているのではないだろうか?ただ単に与えられた場、環境ではなく、より良い環境を、よりよい空間を使って、頭を、体を効率的に使えるようにするために、自分が使う時間の効率を高めるために、その環境を購入する。

 

となれば、自分がどのくらいの時間を、どのように使いたいのか?そうした自分の「時間に対するイメージ」はあるだろうか?

結局、時は金なり。お金で時間を3分とか5分とかを購入できないのならば、自分が使う3分、5分をより価値のあるもの、効果があるものにしていくほかないことに。最後に行き着くのは「時間資本主義」か。

あなたは「課金」していますか?

ブランド構築

Appleの今年のiPhoneが発表された。今までそのデザインの一部となっていたホームボタンすら廃止し、顔認証で使えるようにする。中身のCPU等々も洗練されている。

…が、正直なところ「高い」。今ならノートパソコンですら10万円以下で購入できるご時世なのに、(大変申し訳ないが)スマートホンとは言え、たかがケータイ電話で10万円越えだ。皆さん買いますか?

 

だが、ふたを開ければ発売初日、店舗前には長い行列ができ、相変わらずの大人気の様相。そう、購入できる人もいるだろう。だがやはり値段がネックで購入できない人もいるだろう。Appleはそれでよいのだろうかと考える人もいるかもしれない。

 

たぶんAppleとしては、その価格設定は狙っていた通りのはず。こんな高価なケータイ電話を買う人がいるのか?いる。それはもう店頭の行列が示した通り。ではAppleの狙いは何か?それはたぶん間違いなく、「彼ら(Apple)が、選んだお客様に購入していただける、満足していただける商品の提供」であり、「Appleが選んだ顧客と取引したい」という戦略の上で設定された価格に他ならない。

要するに、メーカー(と言えるかどうかもあいまいになりつつあるが)が顧客を規定してきているという事。それで何をしようとしているのか?それもたぶん間違いなく、「Apple」というブランドを構築しよう、確固たるものにしようとしたもののはずだ。

 

たぶん、原価から考えると、儲けを乗せたうえであっても、スマートホンとしてもっと安価に売ることはできるはずだ。だが彼らはそうしない。それはそうした「安きにのみ魅かれるユーザー」を、彼らの顧客にはしたくないのではないだろうか。言うなれば、太い客、金払いのいい客、利益率の高い客をガッチリと掴んだ上で、利益率の高いサービスで回したいという、自分たちのビジネスポジションをもってしての戦略。

 

もちろんそんな戦略をだれもがとれるとは限らない。売れる商品、サービスを持たないものが、高い値段を付けたところでそっぽを向かれるだけのこと。だが、売れるサービスを手にした際の次の手の打ち方次第で、より高い、おいしい顧客を握ったブランドを構築できるか、いや逆に、薄利多売で市場を占有して、一時の儲けに走るのか、といった方向性が決まる。

Appleは、iPhoneという製品も高い値段をつけるのみならず、彼らのビジネス自体の根幹は、iTunesやAppStoreといった「事」消費によってサービスから生み出されるほうへとシフトしているのはよく知られていること。
逆に、日本の家電メーカーの多くが、そうした「事」消費、サービスからの課金に舵を切ることそのものを嫌った結果として、東南アジアの安く作れるメーカーとの安売り競争に巻き込まれてじり貧になっている現状。

 

さて、Windows95以降のインターネット時代の20年で、ここまでポジションが変わってしまったわけだが、20年前においては、「Microsoftを打ち砕く企業など現れることができるのだろうか?」と叫ばれていたものだ。もっと言えば、Appleだって倒産寸前だったわけだけれど、今のこの状況を誰が想像していたか。今、GAFAGoogle, Apple, facebook, Amazon)と呼ばれる企業群が跋扈しているわけだけれど、2040年にはどうなっているのだろうか?

 

 

一つの姿としての

昨今、国政から学級会、地方の自治会まで、いろんな方のいろんな意見がバラバラと出てきて、本当に様々なことを前進させる、前に進めることがむつかしい時代になったと感じている人もいるのではないだろうか?これをもって、もっといい進め方はないのか?と模索するのも一つではあるけれど、ある意味、これが「民主主義の一つの形」ではないだろうか。

 

民主主義とは、それ以外の違った意見があったとしても、徹底的に議論し、お互いにできる限りの納得をもって前に進めていく。それが民主主義的な物事の運営のしかた。でも今まではというと、もちろん、そうした理想を追い求めていたところもあるのだけれど、結果的に声の大きいもの、力の強いものになびき、弱者や少数者の意見がないがしろにされながら進んできたところがあるのではないか?それの典型例が「多数決」。徹底的に議論したうえで結果的に落ちがつかず、最後の最後に多数決、というのは、完全ではないにせよ前に進めるための一つの策だ。だが、議論もそこそこに、意見の聴取もそこそこに、では多数決で…と早々に決めるのは、これは単に数の論理、多数派のみが勝つというやり方であり、そもそもの民主主義的議論が(全くとは言わないまでも)不十分にしかなされていない状況での結論のつけ方だ。

 

たぶん今までのそうした横暴といった状況のある意味反動もあって、さらに、そうした今までなら声を上げにくかった少数意見の声を声高に上げる手法が、ネットやスマホの普及によって、少数者の手に「武器」を与えられた形となっている現在。このことで、単なる数の論理、多いものだけが勝つ、というところに、若干ではあるのだろうけれども歯止めが効き始めている、それが上述した「なかなか様々な物事が決められない、前に進まない現状」なのではないのだろうか。

 

ただ、多くの場合、議論もそこそこにある意味矯正に近い形で結論づけて来た今までのやり方、今までの決める/決まる時間感覚からすると、いつまでたっても決まらない、いつまでたっても決められない…という感覚にも陥るだろう。だがそれは、あくまで「今までの感覚との対比」でしかない。それは「今までが正しかった」という前提に立っての判断でしかない。が、はたして「今までは正しかった」のだろうか?

 

もしかすると、今現在、決めにくい現在、決まりにくい社会こそが、本来の求めていたイデオロギーの姿の一つの姿ではないのか?
ただそれにしても、じゃあいつまでも決めずにいてもよいものか?というと、たぶんそういうわけにはいかないという現実もある。決めにくい、決まりにくい世の中で、はたして「どうやって決めていくか」「どうやって前に進めていくか」…。覚悟をもって、それぞれがそれぞれの違いに耳を傾け、真摯に歩み寄る姿勢をどのように作っていくのか。違いがないのはおかしい。違いがあるのが大前提。だが多分そこには全てを一瞬にまとめる魔法の杖はたぶんないのだが。

究極の効率化された先に

効率化を突き詰めれば、すべてが同じになる、すべてが同一化する、例外を認めない、というところに行きつかざるを得ないだろう。個別のカスタマイズは認めない。それらに対応するための手間はかけられないという事。そうすれば、作るものは一つ、対応も一つ、やり方も一つ…なら、これほど効率よく回せるものはないだろう。

であるため、形は同じに、匂いも同じに、バリエーションはあり得ない…というところへと行きつくことが想像される。

 

でもそれでは、当然ながら、購買意欲はそがれるだろう。買い物の楽しみの一つは、いろいろある中からどれかを「選ぶ」という楽しみも実際にあるからだ。…と考えると、単純に「効率化」を追及したいというのではなく、選ぶ楽しみがあったうえで、全体としての売り上げが上がるような効率化、消費者、ユーザーが喜んでくれる効率化を目指すというのが本質のところ。

それなのに単にお題目のように「効率化」とだけ叫んでいる社内の誰かはいないだろうか?

 

要するに考えていない、真の目的がイメージできていないのではないかという事。単純に労働を効率化する事だけを目指す…というのならそれはもちろんそれもありだが、そこが求めているゴールなのか?それで大丈夫なのか?そうでないならその先に何があるのか?それをきちんと示さなければ、組織は、メンバーは、間違った方向に導かれてしまうのではないだろうか?

 

その先の世界はどうなっているのか?そしてそれに到達できるためには、今の目の前をどちらにどのように進めていくのか?この視点がなければ、たぶん走り出す方向を間違える可能性のほうが高いのではないだろうか?「効率化すること」を目指していますか?それとも「効率化された先にある何か」をめざしていますか?多分それは、企業も、個人も。