タスクとスケジュール

スケジュールをうまく建てられない人の何割かにありがちなのは、そもそも「スケジュールしなければならないタスクが、きちんと洗い出されていない」事。

そう、「スケジュール」と「タスク」を、同じ言葉として捉えている人が少なくないようなのだ。

 

何かの仕事をやりきるためには、やらなければいけない「全作業」たる「全タスク」が洗い出されている必要がある。これが、流れとしてずらりとつながって全てでてくるのであればいいのだが、思い付きで個別の作業がぽろぽろと出てくる人もある。もちろん、最初はそれでもいいのだ。が、最終的には、全作業/全タスクを上げ切るのが必要になる。

 

そうしてすべてが洗い出せたら、それをいかに効率よく順に並べられるか、それがスケジューリングという作業だ。この「タスクの洗い出し」と「スケジューリング」をごっちゃにしがちな人は少なくない。

 

手慣れている作業であれば、わざわざ別々に考える必要はない。だが、手慣れていないような項目が入ってきたり、そもそもいままでやったことがない作業なら、手順として出てくるわけもなく、作業としての抜けが出る可能性は大いにある。だから、「作業の洗い出し」を優先し、そのあとで、効率よく並べなおすことに注力するのだ。
これを一緒にやっている、混ぜているという意識を持てているかいないか?やるべきこと、注力すべきこと、注意をしなければいけない点が複数あれば、どうしても抜けが出る可能性が上がってしまう。そうならないために、今抽出すべきはなにか?今注力すべきポイントは何かに注意する。

 

器用な人はそのままでどうぞ。でも私のように不器用で、一つ一つを抑えながらしかできない人なら、一つ一つを確実に。最近、マルチタスクで成果を出そう…という人が多いんだけど、そもそも、シングルタスクでもちゃんとできる前提があってこそのマルチタスクじゃないかと思うのだが。でないと、できるわけなかろうに…。orz

 

 

見て覚えろ、の攻防

子弟制度で育てるような仕事とか、先輩について仕事を覚えるといった教育の仕組みを持っているところでよくとられる手法(?)が、「おい、仕事はしっかり見て、体で覚えろ!」ではないだろうか。

その先輩がどうやっているのかを見て、真似して自分でやってみて、うまくいかなければ何がうまくいかないのかを考えて、体で覚える。時には、「違う!そうじゃねぇんだ!」と小突かれながら、怒られながら、なんとかやり切る。そうして3年、5年で徐々に一人前になっていって、やがてその成長した彼に後輩が付いたときに、彼が言うのだ。「いいか、仕事は見て、体で覚えろ」。

でも知りたいほうは往々にしてこう聞きたくなる。「どうすればいいのですか?やり方を教えてください」。でも先輩は言う。「バカ、見て覚えるんだ」

 

昔のように、時間をかけて後輩を育てられる、継承できる環境があるのであれば、このやり方も、もちろん一つの方法。だが、昨今は、そもそも後輩を十分に育てる時間も無くなりつつある。さらに言えば、そうして時間をかけて育てたとしても、その育てた者が継いでくれるかどうかは、大きな賭けになってしまっている。こんな中、時間をかけてまで育てられるのか?それも育つ可能性が低い中で…。

 

であるからこそ、確実に育てられるようにしなければならなくなってきている。見て覚えろ…なんていう形で、習う方が納得しにくいやり方がでは通用しない世界がやってきている。

となれば、どうすればうまくいくのか?どうやっていたのかを、言語化できる必要性が増しているのではないか。そう「言語化」だ。

 

言葉に置き換えれば、それだけでは完全ではないにせよ、それをなぞることは劇的にやりやすくなる。そしてそれに大きく寄与したのが「印刷技術」だろう。印刷技術が発達したからこそ、我々は、本という形で、先人の術を、技術を身に着けて、易々と新たな知識を身に着けていくことができる世界にいる。

音楽の世界の言語化は、音符の発明だろう。昔は聞いて、見て、しか分からなかった、伝えられなかったものが、五線譜、音符という記号を用いることによって、これまた完全ではないのだけれど、同じ曲の演奏をほぼ同じようにできるようになった。

だが、本であれ、楽譜であれ、それさえあれば、それだけで、先人と「全く同じように」その中身を再現できるわけではない。印刷された文字や音符には、感情がなかなか乗っていない。なので同じ本を読んだとしても、同じ楽譜を演奏したとしても、それを読むもの、演奏するもののちょっとした心の位置、タイミングの強弱によって、それは違うものになってくる。いまはまだ、それを個性と呼んだりもするけれど、もしかすると将来のいつかは、本や楽譜に相当するものに、感情をも封入できる技術が出てくるかもしれない。だからそうなる日まで、「その部分を補完する」のが、見て、やってみて、身体で覚える部分では。

 

そう、自分たちで記録に残すやり方がわかっていなければ、全てを受取手にゆだねるしかない。だからこそ「見て覚えろ」だの「身体で覚えろ」だの言うのだけれど、それは、当人自身が覚えるべき何かを言語化できていないからこその助言でしかない。勘所がわかってさえいれば、それを言葉で伝えればいいだけだ。言語化できるところをしていない事こそが、その分野の怠慢であり、下手をすると衰退の引き金になりかねない。

 

単なる素人の直観の域を超えないけれど、今のAIのディープラーニングも、そこが突破口になるような気がしている。どうしてそう考えるようにAIが育ったのかを言語化できなければ、ロジックを明確化できなければ、使い熟す道具にはなり得ないのではないか。

何が勘所なのか、たぶんそれを「学んだ」AIと「学ぶ前」のAIとで比較することにより、差分をいかに言語化できるのか?きっと人間が人間自身を知る大きなヒントがそこにある。

 

変えるのは一つ

困ったとき、何かに挑むとき、ブレークスルーしたいとき…。様々な時において、人は何かを変えていこうと考える。

人生に躓いたら、場所を変える人もいる。住んでいるところを変え、周りの環境を変え、新たな中で新たな関係性を構築していく。そこまで大きく変えずとも、ちょっとした長旅に出る人もいるだろう。

 

こうした変化を求めるときに、「一気に様々なものを変化させる」人もいれば、「一つだけ変える」人もいる。たとえば上記で言うと、住む場所を変えることで、でも事実上言葉も、習慣も、周りの人も変えてしまう。もちろんそれはそれで大きな変化が見込まれて、自分の境遇を変わることはできるだろうけれど、必ずしもうまく変われる…とは限らないリスクをしょっている。

それに対して、変化を求めるものの、「何か一つだけ」を変える人もいる。たとえば旅行。新しい旅先に行くと、「何か新しい事をしよう」とするのではなく、いつもの同じ日常を、「新しい場所で」過ごしてみる。そうしていつもと同じこと、いつもと同じ行動をしてみるけれど、周りが違うことで、何か違う変化が生まれる。

 

どちらが良いか悪いか、などというつもりはない。だが、私は後者が好きだ。変えるものはあるのだけれど、それを極力限定する。一つだけ変える。変化させるのは少なくする。そうすることで、その変えたことの意味がより鮮明になる。変えたことによる変化の作用するところが、明確に感じられる。

一度にいくつも変えてしまうと、それぞれの効果がお互いに相殺し合って、変化がない世界が訪れることもある昨今。ましてや、刺激要因の多い毎日の中で、何がどれだけ効果をもたらすのか。小さなことでも大きな変化を生むことだってある。

 

そう、だから私の場合は、変更点は小さくていい。でも、それによる変化は、時に大きく見えてくることがある。これは好みの問題かもしれないけどね。

 

承認欲求の罠

自身のない者ほど、成功体験がない者ほど、逆に「認めろ」と、暗に求めてくる傾向があるような気がしている。それが承認欲求。世の中、承認欲求に飢えている人がいる。認められない、認めてくれない、自分の真の価値をわかってくれない…と嘆く人がいる。でも、そういう承認欲求が強い人ほど「あなた自身が他の人の価値を認めているのだろうか?」という疑問が湧いている。

 

別に大したことがないやりとりで、「ありがとう」というのは、ある意味、最小の承認欲求を満たしていることに過ぎないはずだ。

「ありがとう」は、「有難し(ありがたし)」、すなわち、そんなことがある、そんな事と出会うこと自体がむつかしい事であるのに、なんと素晴らしい事をしていただけたのか、歓喜にむせぶよ…とでもいう事を略した言葉。「ありがとう」

であるからこそ、ちょと道を開けてくれたら、ありがとう、お釣りをくれた店の人に、ありがとう、インフォメーションで案内してくれた人に、ありがとう…etc. もう、「ありがたいこと」はそこここに蔓延しているはずだ。

 

たまに、「お金を払っているのだ!だから「ありがとう」などと言う必要すらない!」なんて人にも出会わなくはない。けれど、その考え方は「挨拶を買っている」といった考えかたなのか。そもそもそれでは、あなたは「どうやって認められている」のだろうか?

 

小さな子供が、親に言われて(トレーニングとして)なにかを誰かに手渡したり…ということをして、その相手の大人から「はい、ありがとう(ニッコリ)」と返事をいただくことで、子供が照れたような笑いをすることがある。あれこそが承認されたことを受け取った瞬間だろう。とても微笑ましい、そして人間として美しい瞬間ではないだろうか。この人が喜んでくれた、お礼を言ってくれた、私の行為で!という事を受け止めた瞬間。

 

だが、小さなことを積み重ねても小さな承認がもらえない人は、どこかで一発逆転を狙おうとしたりする。今までの分取り返さなきゃ…みたいなことを考える奴らはどこにでもいる。ここで一発…的に、大きく承認欲求を満たそうとする。いや、その考え方自体に、基本的に無理がありませんか。小さなことを積み重ねるからこそ、大きなことにつながる。最初から、大きなものはもらえない。芸能人から国会議員になった人が昔言っていた。「小さなことからコツコツと」

 

結局、そうして「ありがとう」の承認を誰かに提供するのは、結果的に、「情けは人の為ならず」。まわりまわって自分のため。そう「ありがとう」は、やがて自分に巡ってくるもの、やってくるもの。

承認欲求の強い人、誰かに認められようとする前に、「誰かを認めて」見ませんか。「ありがとう」を提供してみませんか?決して高価なものじゃない。たった一言口にするのみ。でもそれが回りまわって自分に返ってくるとしたら?

 

労働者と資本家

アメリカは、すでに富裕層の1%が持つ全資産が、それ以外の99%が持つ資産と同額…なんていう世界になっているとも聞く。そして、アメリカの施策を追う日本は、遅かれ早かれ、割合の大小はあれど、そういう世界に近づきつつあるのだろう。

一部の超巨額な資本家のみが潤い、それ以外は日々働くけれど、わが暮らし楽にならざり。

 

今の世界、労働者の資産形成における主たる戦略は「足し算」だ。今月、来月の給与から、節約した分を積み上げていく足し算。であるからこそ、歩みが遅いし、なかなか増えない。ちょっとしたリスク発生で、すぐに積み立てたいくばくかのお金は吹っ飛んでいく。

それに対して、資本家の考え方は、(多少の誇張はあるけれど)掛け算だ。いくらか投資は必要だけれど、その投資によって、大きなリターンを狙う。もちろん、失敗することもあるけれど、であるからこそ、成功した際のリターンも、大きいものになる。だから、何度かに一度リターンがあれば、それで増やしていける。

だから、労働者の側にも掛け算をやったほうがいいですよ、とサジェスチョンがなされる。それが株式投資であり、債券での運用だ。

昔は良かったらしい。一般市民であっても、株式などやっていなくても、そもそも銀行に入れている定期預金で、3%や4%の利率で増えていった。掛け算としての複利の利用が、一般市民が気にせずとも利用できた世界。

 

だが、バブル崩壊以降、預金の利率が1%を超えたところなど、記憶にある方はいるだろうか?たとえば、利率2%が定常的に続くなら、約20年で50%増しになる。0.02%なら、20年たったところで、1%も増えやしない。そう、低金利になったことで、自分から掛け算(株式、債券)に自分から近づいていかなければ、足し算の世界でのみ暮らさざるを得ないことになってきている。

 

だからと言って、皆が株式債券に乗り出そう!というつもりもない。特にこれだけリスク要因を様々に抱える世界の経済事情において、それらリスクに耐えながら資産運用すること自体が、大変困難な状況。

「だから俺は、地道に貯金して、地味に余生を過ごすのさ」

なんて言う人もいるかもしれないけれど、でもよく考えてみよう。個人的にはそうでも、もうすでに年金基金の一部は株式で運用されている。預金利率が低くなったことで運用が苦しくなった年金をもとに、株式相場で、掛け算効果で、年金を運用し始めている。すでに全国民が、リスクをとった掛け算手法で、将来の運営を試されているという事実。

…であるからこそ、個人的には、地味に行こうと考える人も、少なくなさそうなので。