ビジネスモデルの素性

これがよければ、引っ張るものがボンクラでも、仕事は自ずと回っていく。ただしそのうえで、うまく回せる者が回せば、もっとそのビジネスが発展するスピードが速まったり、儲けの規模が大きくなったりもするだろう。

 

ビジネスモデルがよくなくても、引っ張る者がそれなりにうまければ、それはそれで逐次修正を施しながら回すこともできる。だが、そもそものモデルの素性がよくなければ、なかなか是正はむつかしい。

 

とは言え「時代」は変わる。テクノロジーも進歩する。問題の注目点もいろいろ変わってくるのは当然のこと。


約40年ほど前に、「オイルショック」と呼ばれる時代があったようで、トイレットペーパーの値段が上がったなどというニュースが残っている。当時はもう「石油はあと30年で枯渇する」と言われ、省エネなどが喧しく言われ始めた世界だ。

だがご存知の通り、そこから30年以上たった今ではどうか?石油がなくなったなどという事はなく、「石油はあと30年」らしい(笑)。シェールガスなどまで見つかったり、技術が開発されて、そもそもの年数が伸びている。もちろん無限ではないだろうけれど、今見えている、今信じられていることは、もしかすると10年後はひっくり返っている考え方というのはよくある事だ。

 

だからこそ、ビジネスモデルも時代によりそって変化させなければならない。だが創業者も齢を重ねる事で、頑固に当初モデルにしがみついて、時代から乖離することが少なく無い。

逆に、今はまずいビジネスモデルで苦労していても、偶然、時代がそのモデルに寄り添って来る可能性もある、という事とも言える。

時代をよく読め。時代に寄り添え、そして絶対変えない芯の部分、時代に合わせて変えなければいけない部分をわきまえろという事。と考えると、やはりそれに「寄り添える人」になる、次世代に継承できる人を探す、のがとっても重要だよね。企業が組織が長年生存し続けているのは、思った以上に凄いことなんだよ。

 

 

映画

最近、日本映画の調子が、昔に比べるといいように感じているのだけれど、皆さんはいかがですか?ひところ、日本映画はもう駄目だとか、ハリウッドにはかなわない…なんて泣き言を聞いた覚えもあるけれど、最近は、実写は実写で、アニメはアニメで、それなりの特徴があって、それらをそれぞれに楽しんでいる人を良く目にする。

 

もしかしたらその一つとして、作る世代が確実に交代したことが功を奏しているのかもしれない。時代は変わった。機材も変わった、環境も、経済事情も変わった。その時代に応じたやり方ができるようになったからこそ、再び日本映画が見直されているのかもしれない。期待としては、今までの位置に安住せずに、「変わり続けてほしい」。

 

ところで、映画を映画館で見ると、上映指定時間ちょうどに入ると、「そこから」その映画そのものが上映されるのでは「なく」、しばらく「予告編」が流れること、ありますよね。この、今後上映予定されているいわば「映画のCM」、見たいですかね?

もちろん、あの映画のCMを見て、来月も来ようと思う人もいるでしょう。ただ、別の人もいて、「ちゃんと上映時間から始めてくれよぉ」と思う人もいるでしょ?
そもそも、これだけ時間にうるさい現代、時間を奪い合っているこの時代において、CMを強制的に10分、15分見せる…という今の設定は、強引すぎないだろうか?という気がしている。

 

いや、もちろん見たい人がいるのも知っている。だがそれは、それこそ映画館の待ち合わせロビーで流せばいいわけだし、テレビCMでも流れているはず。昨今だと、ネット映像として提供することだって可能でしょ?となれば、映画館の中、ロビーなどにQRコードなどなどを置いて、お好きな人はご自身の端末でお楽しみを…という手だってあるでしょう?

細かいことになるけれど、毎回ある15分(秒じゃ無いんです!)のそのCM時間を削ることによって、上映回数を1スクリーン当たり1日1回増やすことができる場合もなくはなさそうでは。そうなると、上映収入が向上することにも繋がりませんかね。

 

とかとか、いろいろ想像したりするんですけどね。

映画も変わらないといけないし、映画のみならず映画「館」も変わらないといけないんじゃないかと。

 

前提

全ては認識の範囲の中で。

過去の偉人が成し遂げた偉業というのは、彼らが成し遂げる少し前から今まで、という「我々」が想像しうる範囲として、結果的にすごい!ここまで見通していたのか…という年月を普遍的に見通していたように見える事の先見の明をたたえること。

 

だが、本当にそれは「正しかった」のだろうか?その正しいという判断は「今時点での判断」であり、今後もこの判断は不変なのだろうか?たとえば、ここから100年後からそれを見てみたら、実は全く反対の答えが出たりはしないだろうか?

たとえ科学技術であろうと、後になってひっくり返ることはありえる事。と考えれば、どこまでの認識で合わせるかという「認識の時間的スパン」が合っていなければ、そもそもそれを行った者、その結果を受け取る者の双方においての合理的判断などなしえないだろう。

 

たとえば、「今年」というスパンで考えれば、漁師において漁獲高は死活問題だ。この冬越せるだけの儲けが出るのか?だから必死で、捕れるだけ捕る、という事が正解になる。
だが、「ここから10年」で考えれば、いやいや、稚魚を捕ってしまっては、「今年」はいいが、来年、再来年は不漁になる、稚魚すら取れなくなる可能性は目に見えていたりする。だから今年は厳しくても、漁を続けていくためには、今、稚魚は取ってはならない…という結果が漁獲制限だろう。
だがそれさえも、「30年後」「50年後」からすると、次のような未来もなくはない。実はそうして捕らなかったことによって想像以上に繁栄し、それ自体が自然界に与えるバランスがくるってしまって未来における別資源の枯渇…なんて事だってあり得ることだ。

 

世の中、これだけが正解だ、という事はあり得ない。とすると、まずどのスパンで合理的に考えるのか?それが「ここ5年」なのか、「我々が生きている間(たとえばあと50年)」なのか、「今後100年間」なのか。まずはこの時点での合意がなければ、話は始められないんじゃなかろうか。

直近の事のみに注目するか、これからを見据えるか。財政再建でも、消費増税でも、意見を戦わせている根源はいつもここではないのか。

でもたぶん、それがかみ合わないからこそ、その次に進めていない…という事も多いんだろうけれど。

自分は〇〇の中にいる

我々が生活している「この世界」は、空気で満たされていて、空気中の酸素を吸って、二酸化炭素をはいている…などという事は、たとえば水中に入って、水に満たされている環境では呼吸できないことをもって、「空気に満たされている世界」を相対的に知ったりする。
そう、日常のあたりまえは、通常なかなか認識できないのが常。

だから、時にそれを意識の上部に持ってきて、ほかの環境ならどうなのか?今の環境はどうなのか?という事に興味を持つことこそが重要に。

 

とすると、今のこの環境を変えるなら何が変わるのか?そんな世界があるのか?と想像し始めたとたんに、一気に世界が広がる。

これは、生物的環境のみならず、社会的環境や経済的環境、すなわち会社や組織の環境においても同じこと。もっと良い給料が出ないか?もっと安全な仕事はないのか?もっと面白い仕事はないのか?もっと楽しい仕事は?もっとやりがいは?等々、興味を持てば探し始める。逆に、興味を持たなければ探しもしない。

 

単に「自分たちの中」だけで判断するのではなく、外と比較する。外ではもしかすると、我々が想像していることを、すでに実践していたりするのだから。

 

 

10年後の日本に、いわゆる今国連でカウントしているカウントの仕方での「移民」は、何百万人になっているんだろうか?

質問を考える(リーダーとして)

先日は、ひとりの情報の受け手としての「質問」を考えてみたけれど、これは間違いなく、「リーダー」という立場でも同じように考えられるという事のはずだ。ただリーダーや、面接官の場合には、その「質問」は情報を得る「プローブ」であり、その刺さりどころが良ければ、一度で価値ある情報を大量に得られることもあるけれど、逆に刺さりどころが悪ければ、何ら価値のない情報しか得られないこともある。

 

質問するということは、何か得たい情報があるわけだ。だが、その言葉の受け止められ方、とらえられ方によっては、質問者側が意図した情報を得られない事になる。なら「どう聞けば」自分たちにフィットする情報が得られるのか?

これはこれで二つあって、「相手に質問の意図をしっかりと理解してもらった上」で「それにフィットした情報を返してもらいたい」質問と。もう一つは「こちらの隠れた意図は見えないようにした上」で、「相手の本音を引き出したい質問」と。

 

当然ながら、後者のほうがむつかしい。さらに昨今は質問に答えるほうも、それはそれで研究してきている。であるからこそ「質問する側」がしっかりと考え、研究して聞かなければ、本当に聞きたい情報を引き出せないものだ。

 

と考えれば考えるほど、質問というのは戦略的に非常に重要な「言葉の一手」であり、思い付きで聞くことと、戦略を練りに練って聞く一言で引き出せる事との間には、大きな差が出そうなのは想像に難くないのではないだろうか。

 

と考えれば、質問するためには、素早い情勢分析、情報判断、そして的確な言葉を選び、的確にポイントを絞り込む必要がある。「良い質問をする」ためには、とても頭が必要だ、準備が欠かせないという事になるだろう。

ま、だからむつかしいのだが>質問