前提

全ては認識の範囲の中で。

過去の偉人が成し遂げた偉業というのは、彼らが成し遂げる少し前から今まで、という「我々」が想像しうる範囲として、結果的にすごい!ここまで見通していたのか…という年月を普遍的に見通していたように見える事の先見の明をたたえること。

 

だが、本当にそれは「正しかった」のだろうか?その正しいという判断は「今時点での判断」であり、今後もこの判断は不変なのだろうか?たとえば、ここから100年後からそれを見てみたら、実は全く反対の答えが出たりはしないだろうか?

たとえ科学技術であろうと、後になってひっくり返ることはありえる事。と考えれば、どこまでの認識で合わせるかという「認識の時間的スパン」が合っていなければ、そもそもそれを行った者、その結果を受け取る者の双方においての合理的判断などなしえないだろう。

 

たとえば、「今年」というスパンで考えれば、漁師において漁獲高は死活問題だ。この冬越せるだけの儲けが出るのか?だから必死で、捕れるだけ捕る、という事が正解になる。
だが、「ここから10年」で考えれば、いやいや、稚魚を捕ってしまっては、「今年」はいいが、来年、再来年は不漁になる、稚魚すら取れなくなる可能性は目に見えていたりする。だから今年は厳しくても、漁を続けていくためには、今、稚魚は取ってはならない…という結果が漁獲制限だろう。
だがそれさえも、「30年後」「50年後」からすると、次のような未来もなくはない。実はそうして捕らなかったことによって想像以上に繁栄し、それ自体が自然界に与えるバランスがくるってしまって未来における別資源の枯渇…なんて事だってあり得ることだ。

 

世の中、これだけが正解だ、という事はあり得ない。とすると、まずどのスパンで合理的に考えるのか?それが「ここ5年」なのか、「我々が生きている間(たとえばあと50年)」なのか、「今後100年間」なのか。まずはこの時点での合意がなければ、話は始められないんじゃなかろうか。

直近の事のみに注目するか、これからを見据えるか。財政再建でも、消費増税でも、意見を戦わせている根源はいつもここではないのか。

でもたぶん、それがかみ合わないからこそ、その次に進めていない…という事も多いんだろうけれど。