右肩上がりの時代

今の社会システムを司っている理由の多くは、右肩上がりの経済成長と言う前提が、何らかの形で組み込まれている事だろう。であるがゆえに、経済成長を何とかし続けることが必要とされる。それは、経済成長というある種の裏付けが、人々の富を多く生むことに成功したという成功体験に基づいているというところに起因するのかもしれない。いわゆる資本主義という形を踏襲することで(細かな違いはあるにせよ)人々の多くが便利になり、幸せになれた“と感じられた”ここまでの世界。

 

これからも右肩上がりなのかどうかは、全く分からない。そもそも、「地球」と言う有限な入れ物の上に、どうやって人々が数を増やし、価値を増やし、食料を増やしていくか?と考えれば、何らかの形で「終点」にたどり着くのは自明の事。
ただしそれが、5年後なのかと言われると、そうではないかもしれない。が、50年後か、100年後か、200年後かといったどこかで何かがサチる時が来るのは、誰もが分かっている事。

石油が有限でないことなど、誰でもわかっている。それでも地面を掘り、改定を掘り続けている。何らかの形で代替物が見つかり、それを生業にして生きていけているから。

 

でも本当に掘っても掘っても何も見つからなくなったら。いくら知恵を絞っても、良い影響よりも悪い影響の方が大きくなるようになってしまったら。

…かといって、では少なくとも「右肩上がり“ではない”平衡しつづける世界」として、今組まれているさまざまなルールやしきたりを作り直すために社会のコンセンサスを得られるか?というと、それこそ既得権益者とこれからの世代の間で、大きな争いになるのは想像に難くない。

どうランディングするのか、していくのか?自分の任期でのみ考えているような政治家ではなく、100年200年スパンで物事を考える価値判断できるような人物を称えられる民度、民衆にいたらなくては。