常に達観

今、会社組織は無駄を極限までそぎ落とし、社員の力を極限まで引出し、極限まで組織を最適化しようとしている。そして実際にそのようにして利益を絞り出し、成功している組織もあるんだろう。

 

でもそれは利益面としては効率が高まった良い事である側面は否めないものの、別の側面ではとても危険なことだと思う。「ある環境に最適化する」ということは、「他の環境には最適ではない」ということの裏返しでもあるからだ。これだけ社会環境の変化が激しい時代、ある程度の「環境変化」についていけるだけの余力を残していないと、あっという間に環境の変化から置いてきぼりをくらって環境再適応が間に合わなくなり、自滅しかねない。

 

無駄を極限までそぎ落として「超最適化」するというのは、環境が全く変わらない状況においては素晴らしい究極の最適化かもしれないが、ある意味では論理的限界値でもあり、リスクテイクの極大化との裏腹でもある。状況変化についていける“力”、それを“余力”と言ってしまっていいのかどうなのか私にはとても疑問だけれど、それは確保していなければとても危ない。“強さ”ばかりを強調して「ポキリッ」といってしまっては元も子もない。“しなやかさ”を持ち得なければ状況変化に対応していくのは難しい。

 

 

 

いつもならここで終わるのだけれど…。もう少し考えてみれば、これは「個人」においてもそうかもしれない。

“その組織”に極限までなじみすぎると、他の部署、他の組織へと移り変わることが難しくなる。今の場所では超効率的に動けているかもしれないけれど、他のところには全く順応性がなくなる可能性がある。

今の世の中、世間がどうとらえているかは知らないけれど、雇用の流動化は確実に高まりつつある。それに対して、個々人が流動化に抗うような行動をとること自体が、大きなリスクをはらんでいることにもなりかねない。

法人はしたたかだ。経営に長けた幾多の才能が集まって動いているのだから、ビジネスとしての最高の頭脳を持って動く生き物と言える。であるためその適応力は高い。何としても「人」として生き残ろうと努力する。流動性が上がっていることに敏感に反応して、雇用の在り方も流動性が高まるような方向へと明らかに動き出すだろう。

個人として「法」を後ろ盾としてそれに抗うことはできなくはないけれど、大きな時代の流れを見ると、抗うべきなのか、流れに乗って自ら先に漕ぎ出したほうが良いのか難しい時期でもある。

 

なじみすぎるなかれ。少し引いた目で、冷静に見つめなおしたほうがいいかもしれない。