総中流

アベノミクスと世間は騒ぎ、マスコミがそれをあおることで、一気に円安傾向に振れ、株価がぐんと上がる。

確かに輸出企業は、80円台だったドルが90円台へとさがることで業績がぐんと回復。息をつくことができた。時期的に株主総会でもそれなりの報告ができ、ほっと胸をなでおろす。

 

大手企業はそうかもしれないが、日本の9割以上を占める中小企業はまだまだ。やっと一息つけた大企業が、自社の社員にちょっとお目こぼしが出ただけで、まだ下請け企業にまではおこぼれは届かない。

株式相場全体が上がっている…としても、「株は期待で上がる」ものと言われている。今後は今より悪くない…じゃないかなとの期待から上げただけであり、これに実態経済が追随すれば、さらに上がるのだろう。けれど、そうはいかなかった。賃金が上がった感覚がありそうなのは、全企業のきっと数%程度。日本のほとんどを占める中小企業においては、ほとんど上がった意識は持てていないだろう。

だから「期待」は「期待した以上」には当然成るべくもなく、期待のまま。であるために、一度膨れ上がったものの、元の大きさにまで“萎む”。

 

 

某大国が、国内において格差を生み出すことによって成り立っている、というのは、よく言われること。日本においては、それを感じることなく、発展途上国からの上がりをうまく使うことによってそれを享受できていたものが、発展途上国そのものが追い付いてくることで上がりをもらえなくなっている事実。だからこそ、その代わりになるものが生まれなければ、今までと同じような世界は継続できない。それをどこか別の国に押し付けることがまだなおできるのか、それとも自国内で工面しなければならないのか。

 

知っていますか?以前日本は、“総中流社会”と自らを呼んでいたことを。