心配しすぎるバカ、しなさすぎるバカ

大学で、院生に学会発表させるに当たり、これでもかと練習させる教授がいたり。仕事で、部長にプレゼンさせるに当たり、徹底的に練習させる課長がいたり。

たしかにひどい内容、ひどいプレゼンというのもなくはない。ふたを開けてみたら、もうちょっと何とかならなかったのかと思われるようなものも見ることはある。

 

その反面、もうかなりの形になっているのに、執拗に練習させ、自信を無くさせるような“励まし”という練習をさせる人もいる。もう十分だろうと外から見ると見えるものでも、徹底的に突き詰める。

 

日本は、突き詰めることは得意だったであろう国。徹底的に小型化、徹底的に高性能、徹底的に緻密などなど、それらを武器に世界中を席巻していた。

でもそのうち、ある時期において徹底的な製品を出したとしても、その2年後には、同レベルの製品が、あっという間に半値以下で提供されたりし始めた。

 

より徹底的に。突き詰めてやり切るやり方。

そこは(誤解を恐れずに言うなら)少し手を抜いてスピードを重視して、今までの9割で妥協して出すやり方。

突き詰めてやるやり方は、どんどんと仕事をつめ、根を詰めていく。そしてひどい場合は、(そんな必要もないにもかかわらず)人間性までにも及ぶような刃を突きつけることに至ったりもする。

 

心配せずに、放任せよというのもおかしい。だが、突き詰めすぎて、相手が血を流しているのも知らずにいるというのも、当然おかしい。

 

見極める力、注意深く見る力、そして決断し、ゆだねる力。

若者に求められているところもあるかもしれないけれど、ほとんどの場合それは、マネジメント層に求められているのではないか?

なぜ環境として明らかに「右肩下がり」になっているのに、右肩上がりと同じやり方をやり続けるのか。若者いじめでうっぷんを晴らすのは最低だ。