根拠なき

子供、それも小学生低学年くらいと会話していると、

「ねぇねぇ、○○できる?」
なんて話になる。
「できるよぉ。君は何ができる?」
「うーんとね、△△ができる!」
「ほんとぉ?」
「できるよぉ」
なんて、他愛のない会話になる。

当然ながら彼らの中には、確固たる「根拠」などというイメージは全くない。あえて言うなら、やればできると“思い込む”ことこそが根拠だろう。

しかしこの、思い込み、いわば根拠なき根拠こそが、彼らの原動力。そもそもできるかどうかなどお構いなしに突き進む。そして、結構な割合で、「できてしまったり」するのだ。

無駄な自信。がむしゃらにやること。
大人になると、それができなかった時のリスク、周りに及ぼす迷惑などなど、さまざまなことを勘案して答える。そして少し安全を見たうえで、できる、できないをお答えする。
仕事になればもちろんだ。自分がやったことがない事は、どのくらいで習得できるかどうかわからない。不安の中、先輩、先達の言葉を頼りに進むこともしばしば。

でも、そもそも誰もやったことがない事なら、先達もいない。資料もない、データも存在しない。だからこそがむしゃらに突っ込んでいかなければ突破できない。
その、それが突破できるかできないかのリスクと、それができなかった時の周りに及ぼすリスクと、それらをいっぺんに負わせようとするから負担が大きくなりすぎることがある。でも最近、そうしたリスクをすべて、押し付けようとする姿勢が見え隠れする。

少しは守ってあげなければ、誰も寄り付かなくなる。そしてそこは、日本人が誰も入れない場所にさえなる可能性もある。