すべて具体化と言う幻想

あるモノを知りたいと、そのモノを知ろうとする。見よう、聞こう、触ろうとする。

そうして手にした途端、感触を得た瞬間、分かった!

…と思ったりもする。

 

が、触れたところで、分からないモノは分からない。具象を前にして、分からないことはいくらでもある。

 

物事を具体的に理解しようとする。良いことだと思う。けれど、突き詰めると、多くの場合は、具体的だということで「理解できたと思い込んでいる」事じゃないだろうか?

 

抽象的にとらえる事しかできないものがある。たとえば「怒り」や「笑い」は手に取ることができない。が、確かにそこに存在している。

まだそれすらわかりやすいし、とらえやすい。が、たとえば「やるせない気持ち」や「不満」などなど、捉えづらいものもやはりそこに存在している。

 

…という時に多くの人が感じるであろうこの気持ちを、このように「具体的に」表しましょうとか、こういう図、絵で表現しましょうというルールや経験があるけれど、それすら誰にも当てはまる形で具体化するのは難しいだろう。

 

どうしてそれがそこにあるのか、どうしてそれはそう感じるのか、具体化させる努力はもちろん必要だし、そうすることで物事が誤解なく回り始め、効率化できる部分はある。が、すべて具体化できるという事はまたそれで幻想だということも理解した方がいい。意味が出ないところに手をかけすぎて自滅する事は少なくない。が、これもバランス感覚なのかもしれないが。